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青柳いづみ インタビュー

4月29日、『sheep sleep sharp』は稽古最終日を迎えた。翌日に「LUMINE0」に小屋入りをすると、その3日後には初日を迎えることになる。ここまで出演者にインタビューを行ってきたけれど、青柳いづみさんにだけはまだ話を聞いていなかった。「話をするなら、稽古場での稽古が終わってからがいいです」という彼女の言葉にしたがって、4月29日の夜、青柳いづみさんに話を聞く。

――今日はマームとジプシーの公演リストを持ってきたんです。青柳さんが出てる作品と出てない作品を色分けしてあるんですけど。

 

青柳 (リストを眺めながら)ああ、そうでしたね。この流れでした。

 

――こうして色分けしてみると、青柳さん自身の変化とマームとジプシーの新作というものは結構重なってるなと思うんです。

 

青柳 重なってますね。どっちがどうなのかわからないですけど、どっちもが影響してそうなってるんですかね?

 

――僕が最初に観たのは『あ、ストレンジャー』で、そこに至るまでの5年は知らないんですけど、青柳さんは旗揚げ公演の『スープも枯れた』から出演してるわけですよね。『ストレンジャー』以前の作品はどんな作品だったんですか?

 

青柳 藤田君自身も、彼が今抱えている不安とは全然違う不安を抱えている状態にいたので、作品もまったく雰囲気が違ったんですよね。いつもどうやって集客するかってところから始まって、お金のことはどうするか、どんな作品を作れば受け入れられるのかってことで悩んでいたから、藤田君がほんとうに描きたいものを作れる状況ではなかったと思います。そこで「こういう作品を作りたい、そして作れる」ということがはっきり出てきたのが『ストレンジャー』だったんだと思います。

 

――そういえば、今回の新作にはtrippenが衣装協力という形で携わってるわけですけど、『ストレンジャー』の初演のとき、青柳さんが自分でtrippenの靴を買ってきて、それを舞台上で履いてたんですよね?

 

青柳 そうですね。その頃はほんとうにお金がなくて、衣装も自分で考えて、「黒いワンピースがいいな」と思って自分で作ったり。『ストレンジャー』のときはまず、ストラップの靴を履きたいと思って、それで、靴に重さみたいなものが欲しくって、重力を感じるのはtrippenの靴だと思って稽古の合間に買いに行ったんですよね。ワンピースを手作りしてるような人が靴を5万円で買ったの。trippenの、Girlyという靴です。

『あ、ストレンジャー』(2011年)撮影:飯田浩一

――重さが必要だと思ったっていうのは、一体何だったんでしょうね?

 

青柳 何でだろう、あの作品には、地面の下に引っ張られてゆく重さがどうしても必要だと思った。trippenにはもちろん軽い靴もたくさんあるんですけど、重い靴が欲しかったんです。波打ち際で靴を脱いで裸足になるシーンは、ここで初めて生まれました。こうしてリストで振り返ってみると、その後もtrippenの靴は結構履いてますね。

 

――『ストレンジャー』をやってた頃って、「わたしは筒だ」と思っていた時期ですよね。自分は人間ではなくて、台詞の入った筒のような存在だと。

 

青柳 2011年の初演の『ストレンジャー』の頃はそれすら考えてなかったです。「わたしは筒だ」と思うようになったのは、2013年の『ストレンジャー』の再演の頃からですね。その年のお正月に、おせちの何かが喉に刺さって、ただ単に刺さってるんだと思ってたけど何日も取れなくて、喉が詰まっちゃったことがあるんです。喉が詰まると気持ちも詰まってしまって。それは病院に行っても「精神的なものだと思う」と言われて、公演中もずっと治らなかったんです。その棘がいつ取れたのかは忘てしまったけど、そこから私、マームでは『cocoon』まで何もやってなかったんですね。

 

――2013年の1月に『ストレンジャー』の東京公演があり、2月に福島公演が終わると、マームとしては『てんとてん』の創作に取り掛かるわけですよね。3月から4月にかけて日本で『てんとてん』の公演があって、5月にフィレンツェ公演、6月のチリ公演と続いていく。今思い出しましたけど、チリに向かう途中にアトランタでトランジットがあって、空港のバーで藤田君と飲んでたんです。そのとき藤田君が「青柳さんは今、ひとりで沖縄に行ってるらしいです」と言ってたんですよね。

 

青柳 沖縄、行ってましたね。ひとりで2週間近くも沖縄に行くなんて、今となっては考えられないです。沖縄なんてひとりで行ったら毎日ひとりだよね。私、何してたんだろう。しかも楽しい場所をまわってたわけじゃなくて――そう思うとあれは尋常じゃなかったかもしれないです。でも、おぼえてないかもしれないですけど、こないだ「正しさみたいなものってどこにあるのかわからない」って話をしましたよね。それと同じように、何が異常で何が正常なのか、どこから測ったらいいのかわからないから、わからない。あの頃の私からみると、今の私が異常かもしれないです。

 

——初演の『cocoon』のときは、「舞台上にあるものすべてがわたしだ」と思っていたわけですよね?

 

青柳 舞台上というか、劇場ですね。舞台上にいる人たちもそうだし、客席までを含む全部がコントロールできるものだと思ってました。そうじゃないと『cocoon』をやれないと思ってたんです。どんどん追い込まれていかないと『cocoon』をやれないし、それを私がやらないとどうにもならないと思ってたんでしょうね。それは今でも思ってることではあるんですけど。

――そこで不思議なのは、その時期に「わたしは筒だ」と思うようになったことなんです。だって、身体的な異変の生じた時期に「わたしの中には血も肉も骨も通っていない」と思うようになったわけですよね?

 

青柳 ちょっと話が違っちゃうかもしれないですけど、昨日は“ひび”で穂村弘さんのワークショップがあって、皆が「六月」と「引っ越し」というテーマで短歌を作ってくるって宿題があったんですけど、その題では作れなくて。私の短歌は穂村さんにわりと辛辣なダメ出しをされるし、向いてないのかなと思うんですけど、劇場って題で短歌を作ったんです。一つは、藤田君が全然劇場じゃない場所で横並びに歩いてるときに「もっと下手に行ってよ」とかってことをよく言うんだけど、それってどっちに舞台があるかで上手下手って変わるじゃん。向かい合ってしゃべってたらわかるけど、横並びだとわからないってことを短歌にしたんです。もう一つは「かみのけ、かみのけ、かみのけ」の話で。

 

――ありましたね。ある公演を観に行ったとき、最後列に座った青柳さんが急に「かみのけ、かみのけ、かみのけ、かみのけがいっぱいですね」と言ったんですよね。

 

青柳 それで、誰が読んだのかは伏せたまま講評をするんですけど、そこで穂村さんが「髪の毛が一杯だって、その風景を初めて見たわけがないよね」ってことを言ってたんです。それで“ひび”の子が「初めてなわけはないけど、そういうふうに言っちゃうことってありますよね」って話をしてたんですけど、それって嘘じゃん。私は本気で「初めて見た」と思ってたんだけどって、ちょっとびっくりしたんですよね。皆はそうは思わないのかって。ショックを受けました。それと同じように、「わたしは人間じゃない」とほんとうに思ってたんです。でも、皆はそう思わないし、「それは嘘だ」と思われるでしょうね。

 

――その「わたしは筒だ」という時期は『カタチノチガウ』で終わりを迎えるわけですけど、その少し前から移行期に入ってたと思うんです。2013年の9月に『初秋のサプライズ』という公演があって、川上未映子さんの詩を藤田さんが演出して、青柳さんの一人芝居として上演するわけですよね。最初から最後まで藤田さん以外のテキストで演出された公演はこれが初めてですよね?

 

青柳 たしかに、初めて藤田君以外の言葉を発語したのは未映子さんからですね。あと、舞台上に他に誰もいなかったことも大きかったと思います。でも、『まえのひ』の新宿公演の映像を観る機会があったんですけど、あのときの私はイカれてたんじゃないかと今の私は思います。『穂村さんとジプシー』のときだって、そんなにたくさんしゃべってた印象はなかったんですけど、一人でめちゃくちゃしゃべってましたね。一人でずっと「獣姦だ、獣姦だ」とか言ってるんだよ。

マームと誰かさん・よにんめ『穂村弘さん(歌人)とジプシー』(2014年)

マームと誰かさん・ごにんめ『名久井直子さん(ブックデザイナー)とジプシー』(2014年)

――『穂村さんとジプシー』の直後には『名久井さんとジプシー』もあったわけですけど、あそこで名久井直子さんと出会ったのはすごく大きかったんじゃないかと思うんです。あの作品の中に、「言葉をもたないわたしたちは、でも、書かれたことばを、描かれたことばを、名久井さんはデザインします。わたしは、発語します。だから、ことばを持たない私たちは、ことばたちの出口でも、あるわけです。わたしたちという出口から、ことばたちは――」という台詞が出てきますよね。あの台詞によって、青柳さんは自分の役割をあらためて認識したんじゃないかと思うんです。

 

青柳 『名久井さんとジプシー』を観たとき、穂村さんが「星がしゃべってるのかと思った」って言ったんです。それで言うと、筒も私が思いついたわけじゃなくて朝吹真理子さんが「筒みたいだった」と言ってくれた言葉だし、星も穂村さんが言ってくれた言葉なんですけど、星のことは考えてましたね。

 

――星っていうのは、手の届かない遠くにある存在ですよね。穂村さんのやっている短歌というものは韻文で、散文とは違うわけですよね。韻文というのは遠くに存在する何かに向かって投げられる言葉だってことが、それ以降の青柳さんに影響してますよね。

 

青柳 そうですね。「今ここにいないものにまで届け」という気持ちになったのはその時期からかもしれないです。その気持ちが増して行った結果、壊れたんだと思います。大きくなり過ぎて破裂したというか。

 

――少し話が戻りますけど、さっき引用した『名久井さんとジプシー』の台詞にもあるように、青柳さんはある時期から「わたしは出口になる存在だ」ということを考えてたわけですよね。青柳さんは「憑依系」だと言われることもありますけど――青柳さんには何も憑依してないとは思うんですけど――でも、書かれたことばの出口として存在するっていうことは、自分の身体を媒介として観客にことばを届けているわけで、ある意味ではことばを憑依させているわけですよね。

 

青柳 『まえのひ』ツアーをやっているときも、ことば以外をおぼえていないというか。こう言うとまた「嘘だろう」と思われるかもしれないけど。京都から大阪へ移動する日に、前日に買ってたピノを鞄に入れて「あとで食べよう」と思ったんです。で、大阪についてピノのことを思い出したら、革の鞄がピノでビシャビシャになっていて。普通の人間ならアイスをそのまま鞄に入れようとは思わないですよね。

 

――『まえのひ』ツアーのときはそんな状態だったのに、『カタチノチガウ』を経て「わたしは人間だったんだ」ということを再認識して、その後にある『cocoon』の再演ではすごく人間らしかったですよね?

 

青柳 東京公演のときのことはあんまりおぼえてないですけど、そのあとのツアーは人間らしかったと言われればそうなのかなと思います。

『cocoon』(2015年)

――『cocoon』のツアーが終わったあとにも話を聞かせてもらいましたけど、当時の青柳さんの問題意識としては「人間になってしまったことで、すごいものを見せられなくなるんじゃないか」ってことがあったと思うんです。その問題って、実は今も引きずってるんじゃないかと思うんですよね。

 

青柳 まだ引きずってますよ。人間になってからはまだ、ものすごいものを見せることができたと思えてないんだと思います。

 

――そういう感覚が蓄積してるからこそ、去年の『ロミオとジュリエット』が終わったあと、しばらく作品から抜けきらない感じになってたんじゃないかと思うんですよね。『ロミジュリ』はちょっと何百年って規模にアプローチしようとしてたから、余計にその感覚が残ったんじゃないかなと。

 

青柳 『ロミジュリ』から今に至る私のことは、まだうまく言えないです。今は正しいのか正しくないのかっていうことを考えてしまう。

 

――「正しいのか正しくないのか」?

 

青柳 わたしが今何を言うのが正しいのか。舞台上で何を観客に見せるのが正しいことなのか。正しいって何なのか。難しいですね。

 

――それはきっと、今回の『sheep sleep sharp』の初日があけないことには言葉にならない気がするんですよね。初日がくればきっと、青柳さんはまた違うモードになってると思うんですけど。

 

青柳 変わってるかもしれないですね。

 

――でも、『カタチノチガウ』という作品が生まれた背景には、『小指の思い出』があるわけですよね。ほかの人の言葉で母親というものが描かれる作品を上演したことで、藤田君の中に浮かんできた言葉があって『カタチノチガウ』がある、と。それと同じように、『ロミジュリ』をやってみても言い当てられなかった感触があって、それで今回の新作に至ってるんだと思うんです。そうだとすると、舞台の上に立つ青柳さんもまた今までとは違うモードにいかないことにはやれない作品だと思うんですよね。

 

青柳 それは私も同じように感じているんですけど、変化しないと作れない作品ということはわかっているんですけど、それが難しいです。今日の稽古で脱稿しましたけど、自分が「わたし」というものをどうするかってことに関してはまだ何もできていないも同然なので。もうぜんぜん違います。ぜんぜん違うものにならないと――「わたしは筒だ」とか「人間になった」とか、そんなんじゃないんだっていうことにならないと、できない作品だと思います。

――ここまで振り返ってきましたけど、ここからは今回の新作が何であるのかってことを考えてみたいと思います。今回の作品について、プロットでは「ひとつのちいさな町における『わたし』の孤独と殺人を描いた作品」だと書かれてました。その説明というのは、『あ、ストレンジャー』にもそのまま当てはまる言葉ですよね。

 

青柳 そうですね。似てるところはあると思います。

 

――あのとき青柳さんが語っていた台詞に、「ある殺人犯が、なんで人を殺したのかと聞かれたときに、なんとなく、と答えたらしい。なんとなくと答えたことに、震撼する人もいるだろう。でも私は、なんとなくという答えがよくわかる。なんとなくは、すごく真っ当な答えである気がして、ならない」というものがありますよね。あるいは、青柳さん自身が銃を撃つシーンでは「撃つときは、あるボーダーを超えたときだろう。もしかしたらそれは、今夜かもしれない。なんとなく、今夜なのかもしれない。なんとなく。なんとなく」という言葉も口にしています。その「なんとなく」って言葉がすごく印象的だったんですよね。その言葉を発語するってことについては何を感じていたんですか?

 

青柳 ほんとうに、「なんとなく」は真っ当であると思っていた。何も考えてなかった。考えてないというのは、文字どおり「何も考えてない」ということではなくて、あのときの私は「なんとなく」ですべてができていた、できると思っていたということです。

 

――今回の新作がどういう点において新作であるのかってことは、『ストレンジャー』と比較するとはっきりする部分があると思うんですよね。今回の新作はやっぱり、そこを「なんとなく」って言葉で終わらせることはできないってことだと思うんです。そういう感覚に藤田君が至ったっていうのは、2017年っていう状況も影響しているだろうし、30代になったってこともあるのかもしれないですけど、それがふとした一瞬の気分によってなされた行為であったとしても、その判断をくだすというのはどういうことなのか、解像度をあげて検分しようっていうのが今回の新作なんじゃないかと。

 

青柳 そうですね。あのときはほんとうに理由なんてなくて、私自身の中にも、藤田君の中にもきっとなかったんじゃないかと思います。作品の原案として『異邦人』っていうものがあって、あとはあの時代があったということだと思います。

――『ストレンジャー』の初演は2011年の4月ですけど、やっぱりあの時代の空気とは切り離せないものだと思うんです。それは震災に直接的に影響を受けたというよりも、震災によって浮き彫りになったことがあって、それに対する反応としてあの作品があったんじゃないか、と。

 

青柳 『ストレンジャー』のときの「わたし」と『sheep sleep sharp』の「わたし」というものに差なんてつけられないし、そんなものはないと思うんですけど、でも、どの作品でもあてはめることができなかったことを今回藤田君はやりたいと思ってるんだと思います。そのことは最近わかりました。

 

――稽古を見学していると、そこに時差みたいなものがあるなと思ったんですよね。

 

青柳 それは1週間ぐらい前に言われました。

 

――具体的に言うと内容に触れることになるから、ちょっと例えとして話しますけど、稽古場のやりとりで結構決定的な時差があるなと感じたシーンがあるんです。これはあくまで例えですけど、藤田君が「このシーンで青柳さんはコーヒー豆挽いてるから」と言ったときに、青柳さんは「私、コーヒー豆なんて挽いたことないよ」ってぽつりと言いましたよね。そこに結構時差を感じたんです。

 

青柳 それが決定的な一言になりうるんだな? そういうのは『カタチノチガウ』のときにもたくさんあったと思います。

 

――今回の稽古中に、藤田君が「『カタチノチガウ』のときは、三人が『それは言いたくない』ってことでカットした台詞があったけど、今回はもうそれはナシだから」って話をしてましたよね。

 

青柳 その台詞は、藤田君も「ちょっとこれはやり過ぎかな」って言いながら出したもので、それがあまりにも酷過ぎて、全員が「それは言えない」って言って、藤田君も「だよねー」っていう感じだった。でも、今回の作品でやってることに比べたらまだかわいいものだったかもしれないです。

 

――それで言うと、青柳さんは「その言葉を言っていい人と言ってはいけない人というのは明確に分かれている」という話を前にしてましたよね。

 

青柳 そうですね。自分というものが誰かの言葉の出口であるってことに気づいたとき思ったことですけど、言葉を託す人から見て、そのことに責任を持たせられる人と持たせられない人がいるということです。

――それは青柳さん自身としても、自分には言える言葉と言えない言葉があると思ってるということですか?

 

青柳 発語できない言葉、今の段階でまだ言えていない言葉は、この新作の中にはある。今回の新作には「今の自分の状態だと言ってはいけない」と思う言葉があるんです。どうしたらそれを発語できるようになれるのか。私の速度が遅くなっていて、藤田君に追いつけていないのが一番怖いです。この作品で私は何になれるのかがまだわからない。それはきっと、筒でも星でも人間でもないんだと思いますけど、何になれば言えるのかがわからない。

 

――それは稽古を見学してるときにも感じました。藤田君としては「いや、この言葉は言うよね」ってことで書かれているわけですけど、テキストを渡された青柳さんにはその感覚が同期されてない感じがしたんです。

 

青柳 でも、1週間前に藤田君が言っていたことを踏まえるとものすごくしっくりくるんです。この言い方でしか言えないものがあるんだなっていうことはわかったんですけど、それをその言い方で言える「わたし」にならないと、何もかも成立しなくなるんだろなと思います。

 

——もちろん皆それぞれ違う人生を生きているわけだから、時間だって当然違うわけですけど、藤田君は今回その時差にフラストレーションを感じてる気がするんですよね。昨日の稽古の段階ではまだ青柳さんは何者でもない感じでしたけど、藤田君の側からすると「この言葉を言うってことはどういうことなのか、どうして青柳さんは青柳さんで考えてくれないのか」というところで時差を感じてるんじゃないかなと。

 

青柳 時差ですね。藤田君が「こうしてほしい」と思っているイメージはわかっているんですけど、それをやっていいものになるまでにどれぐらい時間を要さなきゃいけないんだろうってことを感じてるんだと思います。ほんとうは、テキストを渡された瞬間に一瞬でできないと、もうだめなんですけどね。悔し過ぎて歯を食いしばって、また歯が欠けそうです。藤田君が書いてるのを読むまで忘れてましたけど、『カタチノチガウ』のときは歯が欠けるまで食いしばってたみたいです。

『カタチノチガウ』台湾公演(2017年)

――今回の新作の稽古が始まる直前には、『カタチノチガウ』の台湾公演がありましたよね。台湾での大きな出来事の一つは、大学の講義に招かれてトークをすることになって、第一声で大学の先生から「あなたのことをクレイジーだと思っている」と言われたことがあると思うんです。そのトークは青柳さんも聞いてたんですか?

 

青柳 聞いてました。その場に全員いたんですけど、通訳の言葉は私たちには聞こえなかったから、「クレイジーだ」と言われてたなんてことはぜんぜんわからなかったです。

 

――それはでも、余計にショックだったかもしれないですね。そこで『カタチノチガウ』がクレイジーだと形容されてしまったことは本当に大きな出来事だと思うんです。僕はそのトークを聞いていないから、何を持ってクレイジーだと言ったのかはわからないですけど、あの作品の中で長女は「あのオトコのをわたしは握ったことがあった」ということを口にして、母親の再婚相手がそういう行為に及んでいたということが明かされるわけですよね。あるいは、それを知った次女が「わたしとも交わってよ」「わたしたちがいかにカタチノチガウコドモなのかってことがわかるとおもうんだ」と父親に迫る場面もあるわけですけど、それでもって「こんな話を考えるなんてクレイジーだ」と言われたんだとしたら、ほんとうに、クレイジーなのはどちらなのかという話になるわけですよね。そんなことっていうのは、いつの時代だって起きてしまっているわけですよね。そのことについて考えを巡らせてみることと、それを「クレイジーだ」と言って終わらせてしまうことと、一体どちらが異常でどちらが正常なのかってことは当然あるわけですよね。

 

青柳 最近思うんですけど、藤田君をはじめとして私の周りにいる人たちって私が考えている以上に傷ついているのかもしれないと思ったんです。あのときは「クレイジーだって言われちゃったんだけど」って皆に言ったりしてたけど、その裏でほんとうにすごく傷ついてるんだろうなと。なぜ傷ついているかというと、自分とはイコール作品であって、作品がなければ彼は生きていけなくて、この世界ではもうクレイジーだとは思えないからああいう作品を作っているのであって。でも、一番近くにいる私でも、その彼のすべてをわかることはできていなかったなと。私がばかだからかもしれないけど。

 

――『カタチノチガウ』ということで言うと、あの作品を最初に作っていた頃に起きた出来事として、イスラム国に後藤健二さんと湯川遥菜さんが拘束された事件がありましたよね。彼らの最期は動画として配信されてしまうわけですけど、そのことを藤田君が話していたなってことを最近思い出したんです。そのとき話していたのは、その映像そのものではなくて、そこで彼らが見ていたであろう風景の暗さってことでしたよね。それとは別に、『書を捨てよ町へ出よう』のときだと、舞台のラストで青柳さんが「パチン」という言葉を口にして、その言葉とともに舞台も終幕を迎えるし、青柳さんが演じているキャラクターはもしかしたら命を絶ったかもしれないわけですよね。その瞬間について、青柳さんは「自殺じゃなくて自爆だと思っている」と言っていたことがすごく印象的だったんです。その自爆って言葉に含まれるニュアンスというのは確実にありますけど、これまでやってきた作業というのは、いろんなことに想像をめぐらせてみるということだったわけですよね。そのことについて、青柳さんはどんなことを感じてここまでやってきたんですか?

 

青柳 想像ということで言うと、今までの作品すべて想像ですね。それは死ぬことじゃなくても。最初に「先端で、さすわ さされるわ そらええわ」をやったとき、未映子さんに「何でわかるの」って言われたことがあるんです。「わたしと同じように生きることは不可能なのに、何でわたしのことがわかるの」って。

『まえのひ』(2014年)

――でも、今までの作品だって想像をめぐらせてきたとは思うんですけど、この新作はちょっと今までとは段階が違うんじゃないかという印象が強いんですよね。たとえば、2014年の海外ツアーのあとで青柳さんと吉田聡子さんと3人でパリのレストランに行きましたけど、その2ヶ月後、レストランにほど近い場所でシャルリー・エブド襲撃事件が起きましたよね。あるいは、去年の秋に青柳さんは欧州ツアーに出てましたけど、青柳さんの訪れたモンペリエという南仏の町で、公演のあった1ヶ月後に教会関連施設が襲撃される事件があって。朝起きたらテロが起きていたということが普通になってしまったような感覚があって、それは海外に限らず、国内でだって朝起きたらこんな事件が起きてしまったということは何度もあるわけです。そういう事件が起きるってことは、そういう判断を下した人がいるわけですよね。そういう判断を下してしまう人がいるってことはどういうことなのか、そのことに想像をめぐらせるためには今までの速度では追いつかないという焦燥感みたいなものを今回の作品からは強く感じるんです。

 

青柳 (再び作品リストを眺めながら)こうやって並べていくと、藤田君が何のために演劇をやっているのかということが、私の変化なんてもの以上に変化していますね。だとすれば、私も何のために演劇をやっているのか、変わらっていかないといけないですね。

 

――『小指の思い出』から『カタチノチガウ』に至る時期に話を聞いたとき、もちろん僕がそういう方向で質問をしたこともありますけど、“託す”ってことについて話をしましたよね。身体は消えるけど洋服は残るって話から、「私が死んだら、洋服は全部あげたい」って話を青柳さんはしてましたし、『カタチノチガウ』という作品をやる上では「観客に託す」ってことが一つのテーマでもあったと思うんです。でも、今回の作品は誰かに委ねるとか託すとかってことではダメなんだっていうモードになってますよね。誰かに託すってことの大切さを否定するわけではないと思うんですけど、委ねるってことがネガティブなことになってしまう場面があるってことだと思うんです。

 

青柳 藤田君から最初に「『カタチノチガウ』では他人に未来を託すという選択をしたけど、“誰かのため”ってことではもうダメで、“全部私のため”じゃないとダメなんだよ」ってことを言われたときに、私は「えっ、そうなんだ?」と思ったんです。そこですでに藤田君との時差は生まれていたんでしょうね。“私のため”ということが、そう言われた瞬間の私にはわからなかった。

――もし世界を終わらせるスイッチを持っていたとして、「こんな世界は終わってしまえばいいんだと私は思う」ってことで押すのと、「こんな世界は終わったほうが皆のためなんだよ」ってことで押すのとでは、結果は同じだけど全然違うことですよね。そこで「わたしは思う」ではなくて「誰かのために」ということで判断が下されることで何かが歪んでしまうところがある――そういうことを青柳さんにも考えていてほしいし、判断をし続けていてほしいってことなんだと思うんですよね。そこに時差があるから、結構厳しいダメ出しになったんじゃないかなと。

 

青柳 近年稀にみる怒りかたでしたね。いつもはわりとわざとなところもありますけど、今回はそうじゃなかったです。

 

――そういえば、『小指の思い出』と『カタチノチガウ』のあいだの時期に話を聞いたとき、『奇跡の海』って映画の話になりましたよね。あの映画を、最近ようやく観たんです。

 

青柳 ようやく観たんですか?

 

――ようやく観ました。あの映画に登場するベスって女性は、周りの人たちからクレイジーだと扱われてましたよね。ここまでの話として、正しいのか正しくないのか、狂っているのはどっちなのかという話がありましたけど、それは『奇跡の海』にも共通しますよね。

 

青柳 教会でずっと神様の言葉もしゃべってましたもんね。

 

――彼女は教会で神様に問いかけて、その問いかけに対する神様の言葉も自分でしゃべってたわけですよね。そんな彼女と、「汝は地獄に落ちる」と宣告して彼女を埋葬する人たちとでどちらが狂っているのかということはわからないわけです。ちょっとそれに関連した話でもありますけど、ここ数年の青柳さんの問題意識として「わたしは誰だ?」ということがありますよね。それはもちろん作品ごとに考え続けることになるとは思うんですけど、「その答えはもうわかっているでしょう?」と思うんです。

 

青柳 そう?

 

——今回の作品で舞台上にあらわれるのは一体誰なのかって問題はあるにせよ、本体がないとはもう言えないだろうとは思います。本体はもう見つかってるはずですよね。その青柳さんだから言える言葉はあると思いますし、今書かれている言葉はそういう言葉として書かれているんだと思いますよ。それは筒や星だった時期の青柳さんには言えなかったかもしれないけれど、本体を見つけた今だからこそ言える言葉があるんだと思います。そこでありとあらゆることに想像を巡らせているからこそ――それはある人から見れば気が狂ってると言われてしまうかもしれないけど――言える言葉があるんだと思います。

 

青柳 きっと『カタチノチガウ』までの私は、私の肉体があるってことを信じてなかったんだと思います。それと同じように、今この瞬間くらいまでは私の思考というものがあるってことを信じてなかったんだと思います。

――でも、ありますよね?

 

青柳 肉体もあったわけですから、思考もあるんでしょうね。その思考と舞台上にあげるものはまったく別物であると思ってましたけど、それじゃうまくいかなくなってきたってことが去年ぐらいからある。それがきっと、「面白ものを見せられなくなるないんじゃないか」って感覚に繋がってたんでしょうね。そこで私は「肉体があってしまうから面白くならないんじゃないか」と思ってましたけど、そうじゃなかったのかもしれない。でも、今話してて思いましたけど、それはきっと、『ロミジュリ』のときからも彼が求めていたことなんだろうなと思います。

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