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召田実子 インタビュー

 『sheep sleep sharp』に出演する召田実子さんは、旗揚げされた当初からマームとジプシーに関わってきた。彼女は作品に出演するだけでなく、舞台で使用する映像の製作などテクニカルスタッフとしても作品を支えており、ここ数年はほぼすべての現場に携わっている。この日はマームとジプシーの作品で使用される道具たちが保管されている“葵ちゃん倉庫”に案内してもらって、召田実子さんに話を聞く。

――“葵ちゃん倉庫”、初めて入ります。

 

召田 ここ、昔はスナックだった場所なんです。それで、床はフラットじゃなかったんですけど、マームの男子たちと板を張って、平らにして。なおかつ湿気がすごいから、下に一本棒を通して、ちょっと湿気対策もしてるんです。

 

――マームの舞台に置かれている小道具やテーブル、扉なんかはすべてこの“葵ちゃん倉庫”に収納されてるんですね。量がすごいことになってますけど、この倉庫を借りるまではどうしてたんですか?

 

召田 サボテン荘(マームとジプシーに関わっているメンバー4人で暮らすシェアハウス)は、マームの倉庫兼シェアハウスっていうことで、マームからちょっとお金を出してもらって倉庫としてひと部屋貸してたんです。サボテン荘は今年で5年目になりました。長くて4年だと思ってたんですけど、順調に5年目に突入しました(苦笑)。

 

――でも、ひと部屋に収まってたってことは、ここまで大量ではなかったわけですよね?

 

召田 そうですね。借りたことで場所があるっていう安心感も生まれて、今はどんどん増えてます。藤田君は基本的に物欲があるほうなので、たぶんこれからも増え続けると思いますし、だから「次の倉庫どうする?」ってなってます。今は稽古場に持って行ってるものがたくさんあるからここも余裕がありますけど、それが戻ってくると結構出し入れが大変になるんです。

 

――ちなみに、この倉庫のどこに何があるかっていうのを一番把握してるのは誰ですか?

 

召田 私です。私の頭の中にしかないですね。リスト化しなきゃって話にはなってるんですけど、ちょっと今はむりっすね。

 

――その役割を実子さんが担うことになったのはなぜ?

 

召田 合同会社マームとジプシーの社員だからってことはあります。でも、その前から現場に続いて入ってる人が私しかいなかったので、結果的に私が一番知ってる人っていうことになって、だから自動的に「あれってどこにあったっけ?」って話になると私がやるっていうことになり。それで、社員になったときも、そこは誰もやる人がいないポジションだったんで、仕事としては、道具のことも含めてその他庶務をやっております。

――合同会社マームとジプシーの社員って、今は何人いるんですか?

 

召田 3名です。林社長と、ふじた、じつこです。

 

――会社を立ち上げたときは林さんと藤田君だけが社員だったわけですよね。そこに召田さんも社員として加わるっていうのはどんなきっかけがあったんですか?

 

召田 その頃はカラオケ屋さんで深夜バイトしてたんです。それが最後のバイトなんですけど、マームの活動もどんどん忙しくなっている時期で、道具のことをやらないと現場がまわらないってことがあって、そういうところに気が向いちゃうってところも性格的にあるので、ボランティアで色々やってたんです。そこで「それならちょっと対価を支払おうか」みたいになってくれて、社員になるかどうかってことは結構悩んだんですけど、やることはきっと変わらないので社員になることにしたんです。

 

——前回実子さんにインタビューしたのは2014年、『てんとてんを、むすぶせん。からなる、立体。そのなかに、つまっている、いくつもの。ことなった、世界。および、ひかりについて。』でイタリアを旅しているときでしたよね。『てんとてん』という作品における実子さんは、出演者でありながら映像スタッフでもあり、「その両立って大変ですよね?」って話をしたと思うんですけど、今は役割がさらに増えてますよね。

 

召田 そうだ、あのときポンテデーラで話したときはまだ社員になってなかったんです。そのときに「ここからマームが変わっていくかも」みたいな話をして、「私もどうしていくんでしょうね?」って話をしたのを思い出しました。それで、映像ってことでいうと、私が最初に映像をやったのは『飴屋さんとジプシー』(2012年)のときで、そこからスタートしてるんです。今はプレイハウスっていう大きい劇場でもプロジェクションできるようになってるわけですけど、自分がここまでできるなんて一ミリも思ってなかったんですよね。そこは自分の未知数なところで、「そういう状況があるならば」と前向きにとらえてやった結果として今に至るみたいな感じです。もちろん役者もやりたいんですけど、自分のその未知数なところにも興味はあるので、「できることや欲されたことはやっていく」というスタンスでここ3年はやってます。

2014年の『てんとてん』海外ツアーの様子。映像作業は深夜まで続く。

――2014年に話した「ここからマームが変わっていくかも」っていうことは、結果的に現実のものになりましたよね。やっぱり、あのときはまさに転換期だったと思うんです。東京芸術劇場のプレイハウスで『小指の思い出』を上演して、その作品の楽日を迎えないまま『てんとてん』のツアーが始まり、初めて藤田君が演出する作品が二つに分かれたわけですよね。それ以降、いくつも同じプロジェクトが並行しているってことが当たり前のことになってるなかで、実子さんはすべての現場についてますよね。今回の『sheep sleep sharp』の稽古初日、実子さんのシーンで藤田君が「これ、実子でしかないな」って言ってましたけど、そういう距離感で関わっていたらそれは「実子でしかないな」ってことになるだろうなと。

 

召田 そういうことをあえて言ってくるんです(笑)。でも私の場合、藤田君がすごく考えて微妙なバランス感でキャスティングしてくれていて。あと、個性がどうしても強いっていうのもあるし、そりゃあ役者脳としては出たいって気持ちはありますけど。ほんとにコンプレックスの塊を抱えながら生きてきてるので、まあ、わかりやすいところだと「背が低い」とかありますけど。たとえば今回共演している青柳さんとかが最初に砂場の上に佇んでいるだけで作品に対する興味を惹いたり、そこに孤独な少女像を想像する人も多いと思いますが、私が最初に砂場の上に立ってても完璧そうはならないなっていう(笑)。そういう個性だったりが、人それぞれあるとは思うんですけど。

 

――ずっと現場についてるってことで藤田君との関係も変わってくるかもしれないですけど、それ以外にも変わってくる部分はあると思うんですよね。「マームとジプシーは劇団じゃない」ってことは繰り返し言われてきたことですけど、作品ごとにメンバーが構成されていくなかで、実子さんはずっと存在し続けているわけですよね。そうすると、皆がだんだん変化していく感じも目の当たりにするんじゃないかと思うんです。

 

召田 それは大いに感じますね。それは皆の演技にも感じるし、その演技を観た藤田君の反応にも感じるし、それぞれの状況もまた違ってくるし……。それぞれ皆、やっぱりこう、生きていかなきゃいけないから。当然出てる期間と出てない期間っていうのが事実上出てしまうわけですけど、その間も皆生きてるわけっすよ。私は稽古場しかわかんないけど、稽古場のそとから皆が取り込んできた新しい空気みたいなものがあって、それはその都度違うから、作品にもそれは影響してると思います。だから、どこで変化を感じてるかと言われたら、みんなの細かいところから社会的な大きいところまで含めて、常に感じてはいます。諸行無常な感じですかね。ほんとそれは実感します。

――今年はマームとジプシー旗揚げ10周年にあたる年なわけですけど、その旗揚げから実子さんは関わってるわけですよね?

 

召田 そうですね。前身となる荒縄ジャガーが解散して、藤田君が1年間自分の中で考えて「またやろう」ってなったときに、思いついたシステムがあったんですよ。藤田君のコンセプトとして、作・演出/テクニカルなことをわかる舞台監督/企画・運営・制作っていう三つがあって、最初に声をかけるのはキャストじゃなくてそのメンバーだってなったんです。そこでそのとき声をかけてもらったのが舞台監督の森山(香緒梨)さんと私で。その三人で淵野辺の「イタリアントマト カフェ・ジュニア」で、藤田君からその話を聞いたってのが最初ですかね。そのときから藤田君は「メンバーを抱えない」ってことでそのシステムを考えてて、自分のプロデュース団体みたいな形で企画を進めていくなかで、キャストが必要になればキャストを呼ぶし、他に技術スタッフが必要になれば技術スタッフを呼ぶみたいな感じのシステムになって。そのあとに「結局、名前はどうする?」ってことで、その日だったかは忘れましたけど、淵野辺のジョナサンで深夜に名前を考えました。私と森山さんを呼んだときは、藤田君も結構おそるおそる言ってたような感じはありました。確信は確実に持ってたでしょうけど。

 

――ちょっと話は変わりますけど、ここまでの質問ってきっと、実子さんも想定済みの質問だと思うですよね。

 

召田 だけど、ちょっと、うまく答えられてるかっていう、自信はないですけど。

 

――でも、こういう質問だけで終わるだけだと、公演が近づいてきた今、わざわざ時間を割いてもらってインタビューする意味はないっていうか、もう少し違う話もしたいと思ってるんです。今回の作品は、「ひとつの小さな町における『わたし』の孤独と、殺人を描いた作品」だとプロットに書かれていて、今できているシーンを観るだけでもかなり閉ざされた環境ではありますよね。小さな町ってことで思い出されるのは、今からちょうど2年前に実子さんの実家のある村まで遊びに行かせてもらったときのことなんですけど、その村にいるとすごく落ち着いたんです。なぜかっていうと僕も山間の村の出身だから、見渡す限り山で区切られてる風景のほうが落ち着くんですよね。実子さんは風景ってことに対してはどんなことを感じて過ごしてますか?

 

召田 そういう感覚は思った以上にありますね。山に囲まれてたら落ち着くっていうのは私もありますし、ほんとに山しかない村だったから。たとえば「毎週ジャンプが出る」とかってことすらちゃんと知ってなかったんです。うちの村にある店でジャンプとか目に入ればそれなりに意識するんだろうけど、目にする機会がなかったんですよね、カルチャーみたいなものっていうとテレビしかなくて。今になって、情報の取り込みかたの鈍さっていうのは、街で暮らしてきた人と一緒に過ごしていると、どうしても根底にそういうものを感じるんですよね。あと、自然に対してってことでいうと、沖縄の座間味島に行ったとき、ほぼ初めてサンゴのある海で泳いだんです。私は長野県出身だから、海水浴っていうと新潟に行くんですけど、新潟の海は海に入っても砂浜みたいなとこなんです。だから初めてサンゴのある海で泳いだとき、「初めて惑星に降り立ったらこういう感覚になるかも」ぐらいの感じがあって。あそこから深海までこの海が続くこととかが、ぐわーってすごい想像がヤバいことになって、若干溺れそうになるくらいあたまの中がびっくりしちゃって。サンゴのある海では泳げないっていう事実をつきつけられた瞬間があって、「ああ、私って山育ちだったんだ」ってすごい思ったんです。あと、藤田君もそうだし、他にも海の近くで育った人はまわりにいますけど、私には海の表情がわからないんです。

 

――ああ、僕もそれは全然わからないです。

 

召田 海が占めてる面積は山よりも絶大に広いから、それを知らずに生きてきたのはもったいないっていう感じもあるけど、だから興味はすごくあります。でも、うちの村でもクジラの化石とか出てるから、昔は海だったらしいんですよね。それは浪漫としては面白いし、村にいても「ここは海だったんだ」と思って生活してきてるから、海に対する興味をずっと持ってきたってことは自覚してます。

実家近くの丘から、かつての“全世界”を見下ろす。

――海ってモチーフはマームとジプシーが繰り返し描いてきたものですけど、町を出るってことも繰り返し描いてきましたよね。実子さんも生まれ育った町を出てここにいるわけですけど、町を出るっていうのは実子さんにとってどういう記憶としてありますか?

 

召田 藤田君の地元からだと、東京っていうのは本当に距離もあるし、海で隔てられてるっていう感覚もあると思うんです。でも、私の地元から東京はわりと近かったし、東京には何度も出てきてたので、一念発起して上京するみたいな感覚はあんまりなかったです。でも、その土地を出るっていうよりは、一つの集団から抜けるっていう感覚はすごいありました。うちの地元の場合は皆知り合いだから。

 

――小高い場所から村の風景を見下ろしたとき、実子さんが「これが私の全世界でした」って言ってましたよね。あの言葉がすごい印象的で。

 

召田 ほんとに、あれが私の全世界でした。

 

――さっきも言ったように、今回の新作は「ひとつの小さな町における『わたし』の孤独と、殺人を描いた作品」なわけですけど、そういうことって作品を観るとすごく考えさせられるわけですよね。でも、じゃあ小さな町に暮らしていた頃の自分がそういうことをどこまで考えられていただろうかってことをふと考えることがあるんです。実子さんが「あれが私の全世界でした」っていうとき、その「全世界」っていうのはどんな認識でしたか?

 

召田 そこで起こったこととか触れられるものとかからしか、物事や世界を知れてなかったなっていうところがあって。“そういうことってあり得る”ってことは知ってたけど、それが身近なところで起きうるってことを知らなかったこともあるし、“そういうことってあり得る”ってことすら知らなかったから知るすべもなかったっていうこともあって、そういう感覚で「あれが全世界だった」っていう感じがあって。まあでも、その世界から出てきて、より多くのものに触れられる環境にきてから、より明確に思うようになりましたね。「あれが私の全世界だった」って。ほんとに同じ光景しか見てなかったですもん。だから、想像するしかすることがないっていう。

 

――想像するしかすることがない?

 

召田 想像するっていうことしかやることがなかったんですよ。ほんとに。単純に山の向こうのことを想像したり、「ここからヨーロッパに行くには」ってことを想像したり、いろんなことですね。恐竜のこととかも考えたり、現実的なことからアドベンチャー的なことまで、とにかく想像するしか、それしかやることがなかったんですよね。

 

——それが今やこんなにヨーロッパに行くことになるとはって感じですね。

 

召田 そうですね。だから、海外にはもともとすごい興味があって、大学一年のときに初めて海外へ行って、「演劇研修」っていう大学の企画でヨーロッパに行ったんです。アイルランドで語学研修して、エディンバラで大きな演劇フェスティバルを観て、ロンドンで観劇をして帰ったんですけど、そのときから写真撮りまくってて。目に新しいものがたくさんあって、それは海外にかぎらず、東京に行くといまだにおノボリさんみたいな感じで、いつまで経ってもすべてが珍しいんです。いまだに海外に行くときは写真撮りまくってますけど、すべてが珍しいって感覚が尽きないんですよね。

2014年、イタリア・マッジョーレ湖畔の町にて。

――ほんとに、いつも撮ってますよね。

 

召田 偏りはありますけどね。イタリアは幸いにも何度か行けてるけど、海外ツアーのときは一回性の感じはすごいあるから、そういう興奮の仕方はあります。

 

――2013年に行ったチリや、2014年のボスニアはなかなか行く機会がないですもんね。サラエボは行ってみると歩いてまわれるくらい小さな町で、あそこもぐるっと山に囲まれてましたよね。そこでタイダさんっていう日本語がしゃべれる女性と出会って、かつてその山沿いを軍隊が包囲していて、表通りを歩けばスナイパーの銃弾が飛んでくるような状態で、彼女の近所の人も殺されたって話を聞いて――その話はランチのときに皆で聞きましたよね。その話を聞いたあとで、皆で何か話したりってことはなかったですけど、皆がそれぞれ何か考えていたと思うんです。あのとき実子さんは何を思ってましたか?

 

召田 『てんとてん』の記事でも土地に対する距離のことについて書かれてたけど、話を聞いてもその距離っていうのをさらに実感してしまうってことがあった気がします。日本で起きてることでもそうなんですけど、当事者的な目線の話を聞いても、やっぱり距離は何も変わらなくて。知るってことで考えられることはあるから、「考えるってことには到れた」っていう距離の縮まりかたはあるけど、いつもやっぱりそこまでで、ほんとにその人のことを知れたのかっていうことでは一切距離は縮まってなくて。そういう感覚になりましたね。

 

――土地ってことで言うと、もう一つ話したいことがあるんです。質問ってふうにしてしまうとうまく話せない気がするので、ちょっと自分の話をしますけど、うちの実家には田んぼがあるんですね。うちは代々農家だったんですけど、両親は普通の仕事をしていたから、もう田んぼでは何も作ってなくて。でも、ほったらかしておくと荒れて大変だから、春から秋までは父親がずっと草刈りをしてるんです。草刈りをしなくても、たとえば除草剤を撒いてしまえばいいじゃんって気持ちもあるんですけど、一方では「それって先祖が耕してきた土地をだめにするってことじゃないのか」って気持ちもあって、それを自分はやってしまうのかっていう躊躇はあるんです。実子さんは、土地であるとか、続いてきたものについてどんなことを考えますか?

 

召田 あの、実は、うちの実家を建て直したんです。

 

――前に遊びに行かせてもらったあとに、ですか?

 

召田 あれがギリギリで、そのあと同じ場所に建て直してたんです。前の家はおばあちゃんと私のお父さんが建てた家で、そこにお母さんが嫁いできて、私たちが育って――私の中で実家っていうのはなくならないものだっていう感覚があったんですよね。新しい家は兄が結婚して建てたんですけど、そこにはもう私の部屋ってものはなくなったんです。それによって“帰る”って感覚も変わってきたし、新しいものって始まるんだなってことも感じるんですけど、今は自分の気持ちがめっちゃ宙ぶらりんな感じで。向こうにはもう居場所がないっていうと大げさですけど、自分でちゃんと居場所を作らなきゃなっていうのはあります。あと、新しい家を建てるときに隣の畑も潰して建てたんですけど、うちの場合は近所に使われてない畑があって、お父さんは今そこ畑を借りて作ってるんです。でも、すごいですよね。作ることはやめないですよね、お父さんたち。もちろんその一方では辞める人もいるし、やはり作れる人がいなくなった畑もたくさんあるんですけど。

――最近取材した店があるんですけど、そこは江戸時代から続く峠のお茶屋さんなんです。代々家族でお店を続けてきて、いまお店をやっているお母さんで10代目なんですけど、「店なんか継ぎたくないって思いはなかったんですか」って聞いてみたんです。そうしたらそのお母さんは「それは私も外に出たかったですけど、私が継がないと誰もやる人がいないから」と言ってたんです。そのお店には名物みたいなお菓子があって、昔はそのお菓子を出す店がたくさんあったらしいんですけど、今はその店一軒しか残ってなくて。それで「昔から続いてきたものをここで絶やしちゃいけない」と思って継ぐことにしたらしいんですよね。結局そのお母さんはその町を一度も出ることなくお店を続けてきて、それって何だろうなってことを思うんです。

 

召田 ちょっと今思い出したんですけど、おばあちゃんが亡くなったときにご先祖様の表みたいなのを見る機会があって、「おー、続いてるねー…」って飄々と見てたんです。でも、しばらく経ってから想像をしてたときに、なんか人間のことを考えて――人ってすごい枝分かれして、何十年、何百年もあって自分がいるってことは一回は考えるじゃないですか。すごいなこれ、よく続いてきたなって。一人でも殺されてたら私はここにいなくて、奇跡が続いてきたってことを考えたんですよね。さっきは実家がなくなって気持ちが宙ぶらりんとか言っちゃったけど、畑をどうするのかとか自分は面倒を見る気もないくせにそんなことを言っていて。でも、そこに住むって決めた兄たちがいて、兄が家を建ててくれたことによって50年とか70年とか、長くて100年はあの土地でまた歴史が始まるんだなってことも思ったんです。そういう感覚もあったなってことを、今思い出しました。

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