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対談 中島広隆×船津健太

『sheep sleep sharp』に出演する中島広隆さんと船津健太さんが初めて藤田君の作品に関わったのは、北九州芸術劇場によるプロデュース公演『LAND→SCAPE/海を眺望→街を展望』のときだ。2012年11月に北九州芸術劇場小劇場で上演され、翌年3月には東京・あうるすぽっとで上演されたこの作品は、藤田君が滞在制作というスタイルでゼロから作り上げた初めての作品であり、この『LAND→SCAPE』に出演していた中島さんと船津さんはその後マームとジプシーの作品に出演するようになった。今回はそんな“マーム男子”ふたりに、北九州での創作を振り返りつつ話を聞く。

中島 ああ、山芋鉄板がある。

 

船津 ほんとだ、ありますね。

 

――『LAND→SCAPE/海を眺望→街を展望』で北九州に行ったとき、どこの居酒屋にも山芋鉄板があって、いつもそれを頼んでいた印象があったから、山芋鉄板がある店を探したんです。まず、飲み物はどうしますか?

 

中島 普通に好きなものってなると、ウィスキーとか頼んじゃいそうですけど、福岡ってことで焼酎とか飲んだほうがいいですか?

 

――いやいや、好きなものを頼んでください(笑)

 

中島 じゃあ、ウィスキーのロックをお願いします。

 

船津 僕はハイボールをお願いします。

 

中島 福岡よりメニューが多いんで、迷いますね。向こうの飲み屋は鉄鍋餃子の店だとメニューは鉄鍋餃子だけだし、もつ鍋屋はもつ鍋しかないですから。でも、フナとサシで飲んだのは一回しかないんです。

 

船津 あれはでも、ナカジさんが出てきてすぐぐらいですよね?

 

中島 僕が東京に出てきたのは2013年9月1日だったと思うんですよね。そのときは藤田さんから「『Rと無重力のうねりで』っていう作品を作るから、それに出演するためにまずはボクシングジムに通ってほしい」っていう連絡があって、それで出てきたんです。そのときフナから連絡があって、「飲みましょうよ」って声をかけてくれたんです。

 

船津 それで白楽の焼き肉屋さんに行ったんですよね。

 

中島 そのときフナは「こっちで会えると思ってなかったんで嬉しいです」って言ってくれて。あと、フナもフリーでやってたから、「その一本に出たあとはどうするんですか」って話をしたような気がしますね。

――お二人がマームとジプシーに出演するきっかけとなったのは、『LAND→SCAPE』に出演したことですよね。あの作品の出演者はオーディションで募集されたわけですけど、応募したきっかけは何ですか?

 

中島 僕はそれまで東京で芝居をやってたんですけど、「一旦福岡に帰って芝居を休もう」と思って福岡に帰ってる時期だったんです。でも、その年に北九州芸術劇場でリーディング公演があって、そのオーディションを受けて出ることになって。そのプロデューサーが能祖(将夫)さんで、能祖さんは桜美林大学で先生もされてたんですよね。それで、打ち上げのときに「東京では今何が面白いんですか」って聞いたら、マームとジプシーが面白いって話をされたんです。僕は観たことがなかったんですけど、日が経って藤田さんが北九州芸術劇場で公演をすることになって、オーディションがあったんですね。能祖さんは「受けろ」って言ってくれたんですけど、観たことがないのに受けるのはさすがに無理だと思って出さなかったら、芸劇(北九州芸術劇場)のスタッフの方から電話がかかってきて。そこで僕は「観たことがないのに受けるのは失礼だから、出さなかったんです」と理由を説明したんですけど、「とにかく能祖さんが受けろと言ってます」と言われて、それで応募したのが最初ですね。

 

船津 僕は地元で演劇に出たことは全然なくて、東京のほうで演劇を始めたんですけど、北九州芸術劇場がプロデュース公演をやってるっていうのは何となく知ってたんです。でも、タイミングが合わなくて出せないのが続いてたんですけど、『LAND→SCAPE』のときはタイミングが合って。僕も観たことなかったんですけど、オーディションの前にワークショップをやるっていうことだったんで、「ワークショップを受ければ、どういう作品を作りたいのかとか、人となりが知れて楽しいな」と思ったんですよね。そのワークショップは、自分がどうやって劇場まで来たのか地図を書いて、それを皆で作品にしていくっていう内容だったんですけど、それが楽しかったんです。自分が劇場までどうやって歩いてきたのかを話していく、たったそれだけのことが作品になるのが面白かったんですよね。

 

中島 そのあとだもんね、『ワタシんち、通過。のち、ダイジェスト。』(2012年9月28日-30日、北九州芸術劇場小劇場にて上演)を観たのは。だから、「こういう作品を作るんやな」っていうのはオーディションのあとに知りました。

 

――ふたりはオーディションに合格して、実際に創作が始まるわけですよね。藤田君が作品を作るときって、今なら初日は皆でボードゲームをしたりして徐々に稽古に入っていきますけど、北九州のときはどうでしたか?

 

船津 北九州に「丸和」ってスーパーがあるんですけど、ウィークリーマンションに滞在してる人たちはよくそのスーパーに行ってたんです。それで、そのスーパーに行ったことある人がそのスーパーの情景を描いていくっていう稽古が二日間ぐらいありました。

 

中島 あったね。僕はまったくキタキューのことを知らないから、ずっと座ってたけど。そのスーパーについて説明することが、そのまま芝居になるみたいな感じでしたね。

旦過市場の入り口にあるスーパー「丸和」は劇中にも登場する

――このインタビューを収録する前に、「『LAND→SCAPE』のとき、どうしてふたりを採用したのか」ってことを聞いてみたら、「めっちゃ良いやつだし、めっちゃ飲みに付き合ってくれたから」って藤田君は言ってましたけど。

 

中島 よく「すごい飲みに行ってたよね?」って言われるんだけど、作品を観たことがなかったから、ちょっとでも知りたいと思って飲みに行ってたんですよね。僕は1973年生まれで、藤田さんとはちょうど一回り違うから、とにかくコミュニケーションを取ろうと。ただ、なにせあんまり酒は飲まないんで、僕は烏龍茶しか飲んでなかったんですけど、『LAND→SCAPE』が終わったあとにマームに関わる皆さんから「すごい飲まれるんでしょう?」と言われましたね(笑)

 

船津 『LAND→SCAPE』は北九州で公演したあと、しばらく間があいて池袋で公演があったんですけど、北九州のときに僕は足を怪我しちゃったんです。それもあって、北九州のときは家と劇場の往復で一杯一杯で、ほぼほぼ飲みに行かなかったんですよね。だから、僕が飲みに行ったのは後半ですよね。そのときは僕とナカジさんと藤田さんの三人で飲みに行くことが多くて、一軒目、二軒目と飲んだあと、三軒目にラーメンを食べて帰るっていう。

 

中島 ラーメン屋までっていうのは一時期だけだったけど、めちゃめちゃ食ってたもんね。

 

――作品自体について印象に残ってることは何ですか?

 

中島 とにかくフィジカル面はキツかったですね。あそこまで足首を酷使するのは初めてだったんじゃないかなっていう。でも、とにかく面白かったですね。藤田さんが「もっとグルーヴが上がってかなきゃいけない」ってダメ出しをすることもありますけど、音楽と一緒にパッケージされてる作品っていうものがすごく新鮮でしたね。ケミカルブラザーズのアルバムを一枚全部使うってことも面白かったし、それをあれだけ爆音で使うっていうのも驚きました。僕はバンドをやっていたこともあって、打ち上げのときなんかはよく音楽の話をしてます。

 

船津 あとはやっぱり、藤田さんの観てる視点や景色が面白かったですね。『LAND→SCAPE』のときだと、最後のほうで舞台上が一瞬で海の底になるシーンがあったじゃないですか。舞台の上のほうには船が吊ってあって、お客さんがハッと見上げたときに、海の底にいる感覚に一瞬意識が飛ばされるというか。そういうところが面白いなと思いましたね。

北九州芸術劇場プロデュース「LAND→SCAPE/海を眺望→街を展望」

撮影:木寺一路

——最初の話にもありましたけど、『LAND→SCAPE』の公演が終わったあと、ナカジさんに『Rと無重力のうねりで』へのオファーがあったわけですよね。

 

中島 いや、『LAND→SCAPE』の稽古が始まって2週間ちょいで言われたんですよ。「ボクシングを題材にした作品を作りたいんだけど、それに出ないかって言われたらどうする?」って。でも、まだ『LAND→SCAPE』を作ってる途中だし、とりあえず今回の作品が終わってから考えたほうがいいんじゃないって言ったんです。年下の人に「出てくれないか」って言われたのが初めてだったから、そう答えちゃったんですよね。でも、東京公演が終わったあとにも「やっぱ出てもらいたいんだけど」って言ってもらえて、藤田さんの作品は面白かったし、そこまで言ってもらえるのであればとりあえず一本出てみようかなって話になったのがきっかけですね。やっぱり僕は役者をやりたかったんだと思うし、藤田さんがいつものメンバーで作っている作品にも関わってみたいなっていうのがあったんだと思います。僕は正直、彼の何が秀でてるのかってところまでは理解できてないと思うんです。でも、今までやったことのないものを作ってるっていうことはわかるんですよね。

 

――それで再び上京することになるわけですね。でも、オファーがあったのは『R』なのに、最初に出演するのは『モモノパノラマ』でしたよね?

 

中島 そうなんですよね。「ボクシングジムに通ってもらいたいから9月に来てくれ」って言われて出てきたんですけど、その時点ではまだ誰もジムに通ってなくて、「いつからやる?」っていう感じだったのよ。実際に通い始めたのは9月中旬からで、そのあいだはカーテンもない部屋でずっと待ってる生活でした(笑)。そこで「『モモノパノラマ』って作品をKAATでやろうと思ってる」っていう話があって、『モモノパノラマ』にも出ることになったんです。

2014年『Rと無重力のうねりで』

――『R』ではボクシングの芝居をやるためにボクシングジムに通うことになるわけですけど、あの作品はマーム男子の受難の歴史が始まった作品でもありますよね。『ΛΛΛ』では盆(回転舞台)を回転させ、『書を捨てよ町へ出よう』ではイントレを組み上げ、こないだの『ロミオとジュリエット』では450キロの壁を動かし続けるという。

 

中島 それはよく言われるんですけど、意外と楽しんじゃってるところはあるんですよね。いきなり「450キロを壁を動かしてくれ」って言われたら違和感があったかもしれないですけど、ボクシングをしたり盆を動かしながら演じるっていうのがずっと続いてる感じはあるから、そこまで違和感はなくて、「役者がそういうことをやると面白いかも」と思いながらやってますね。

 

——ナカジさんはずっと続いてる感じがあったと思うんですけど、船津さんは『書を捨てよ町へ出よう』で久しぶりに出演することになったわけですよね。それまでのあいだも藤田君の作品はご覧になってたと思うんですけど、「大変そうだな」という感じはありませんでしたか?

 

船津 でも、もう一回やりたいって気持ちはあったんです。『書捨て』だとイントレを組み立てたり、『ロミジュリ』だと壁を動かしたり――壁を動かしてるときは向こう側のことがまったく見えないし、もっと言うと客席からどう見えてるかもよくわからないから、ただひたすらにやってますね。でも、やってる最中には見れないけど、お客さんからはどう見えてるのかを想像しながらやるのも面白いですね。

北九州芸術劇場プロデュース「LAND→SCAPE/海を眺望→街を展望」

撮影:木寺一路

――少し話が戻りますけど、ナカジさんと船津さんは『LAND→SCAPE』でコンビみたいな役でしたけど、地元の先輩みたいなキャラクターで、結構変な人たちでしたよね。ナカジさんが船津さんのことを「ある日、紫川のほとりで拾ったわけさ」とよくわからない説明をするという。

 

中島 正解です、よくわからないですあれは(笑)。あの説明が本気なのか嘘なのかわからないから、そのわからないっていうところをずっと考えながらやってましたね。

 

――藤田君が言っていたのは、「『LAND→SCAPE』におけるナカジとフナの小芝居みたいな感じって今までのマームになかったから、あれは新しいんですよね」ということで。そのコンビは2016年2月の“夜三作”にも登場しましたし、『ロミジュリ』でナカジさんはキャピュレット家の家長・キャピュレットの役で、船津さんはキャピュレット家の従者・ピーターという役でしたよね。作品を重ねるごとに、藤田君が言うところの「小芝居みたいな感じ」も少し変わってきて、『ロミジュリ』のときはへんてこな間が随所にありましたよね?

 

中島 『ロミジュリ』の話で言うと、藤田さんからの演出として、最初は「間をあけてほしい」ってことしかなかったんです。でも、それまで藤田さんの演出だと間っていうのはほとんどなかったんですよね。

 

船津 僕も間のこととかはあんまり考えてないですね。藤田さんの作品だと、限られた時間の中で台詞やシーンが存在するっていうところが大きいので、「あえて今までと違う間を作っていこう」って言う感じはないですね。

 

中島 ピーターはキャラクター的に独特過ぎるからね。蜷川幸雄さんがやったときも、そこだけお笑いの人を使ったりしてるんです。ピーターっていうのはすごく不思議な役で、何であんな大金持ちがあんな男を雇ってるんだろうとは思うんだけど、それはユーモアだと思うんだよね。

 

——藤田君は「あのふたりのリズムが面白いのは、福岡出身だからじゃないかと思う」「言葉の組み方みたいなところが違う気がする」って言ってたんですよね。もちろん言葉は風土と結びついているところはあると思うんですけど、その点についてはどうですか?

 

中島 演出家は理想を求める人だから、もし「ここはナカジが伸長180センチじゃないと駄目だな」って言われたら、どうやって180センチになれるかを考える。まあなれないんですけどね(笑)。だから――それが九州の言葉だって言われたら、僕はそうは思わないですけど、その可能性もあるかもねっていう感じですね(笑)

 

船津 でも、ちょっと否定はできないなと思っちゃいますよね(笑)。福岡の人はせっかちだなと思うし、並ぶの嫌いだし、方言だと言葉の量も極端に短くなったりするじゃないですか。だから、そういうつもりはなけど、自分の身に染み付いてる部分は多少あるのかなと思います。やってるときにはそんなこと全然思ってないですけどね(笑)

2013年、北九州の海まで歩く

――今度の新作は「ひとつのちいさな町における『わたし』の孤独と殺人を描いた作品」という説明がされてますけど、藤田君の作品というのは都会のど真ん中ではなく、どこか小さな町を描いてますよね。具体的には藤田君の出身地である北海道の伊達って町を繰り返し描いてきて、岸田國士戯曲賞を獲ったあとで旅に出始めたんだと思うんです。まずは2012年の初めにいわき総合高校の高校生たちと『ハロースクール、バイバイ』を上演して、その半年後に『LAND→SCAPE』があるわけですよね。でも、『ハロースクール、バイバイ』はマームとして上演していた作品を高校生たちとリクリエイションするという作業だったのに対して、『LAND→SCAPE』は北九州で出会った人たちと一緒にゼロから作った最初の作品だったと思うんです。藤田君の作品には海という場所が象徴的に描かれますけど、いわきや北九州で自分の生まれ育った町とは違う海と出会ったというのは大きかったと思うんですよね。だって、北九州滞在中は毎晩のように海に行きましたよね?

 

船津 行ってましたね。『モモノパノラマ』のときは北九州公演を手伝いに行ったんですけど、打ち上げのあと、皆ベロベロなのに「海行くぞ」って(笑)

 

中島 もう、皆ボロボロですよ。

 

船津 あれは酷いベロベロ加減でしたね。

 

――僕が知ってるここ数年の中でも、あの時期が一番酔いどれの日々だった気がするんですよね。あの時期北九州を酔っ払って歩きながら考えていたのは一体何だったんだろうかと時々思い浮かべることがあるんです。

 

中島 何でしょうね。『LAND→SCAPE』ではボツになったシーンもあるんですけど……土地ってことに対して色々思うところはあったのかもしれないですね。それは想像でしかないんですけど。あとはやっぱり、海に行くまでのあいだはいつも話しながら歩いてたんですよね。その、歩きながら話すっていうのはすごくある感じはします。『LAND→SCAPE』のときはとにかく外に出て、外に出ると必ず誰かと話しながら歩いてるし、そういう時間に生まれてくるものをすごく敏感に捉えてるんじゃないかと思いますけど。

 

船津 東京公演の前に北九州で稽古をしてたときに、役者と藤田さんとで海まで歩いたことがあるんです。『LAND→SCAPE』の中でも街から海まで歩いてるんですけど、そのルートを実際に皆で歩きながら、途中でワンシーンやってみたりしながら海まで行ったんです。あれはすごい印象に残ってますね。

北九州にある小倉砂津港

――夜に出かけた北九州の海は、とにかく暗いってイメージがあるんですよね。あの暗さは作品にも影響してる気がします。

 

中島 工場がずっと動いてるから暗いんだと思うんですけど、あれは独特ですよね。僕は同じ福岡県でも南のほうなんで、海に行くとすれば糸島のほうになるんです。糸島の海と比べても北九州の海は特殊で、深夜になっても空が灰色で、工場が輝いてる雰囲気は独特ですよね。

 

船津 僕の実家は北九州からちょっと離れてるんですけど、祖母の家が若松にあるので、工業地帯に挟まれた海を見て育ったところはあるんですよね。だから、ああいう海を受け入れてる自分はいます。海と言えばああいう海か、あとは日本海の荒い海かっていう。どっちもそんなにきれいな感じはしないですよね。

 

――『LAND→SCAPE』でも登場人物が町を出るシーンは描かれましたけど、町を出るってこともまた藤田君の作品で繰り返し描かれてきたモチーフですよね。でも、昔は町を出るってことが感傷的で美しくもあるシーンとして描かれてたのに、年々そうじゃなくなってきたところが興味深いんですよね。その背景には、北九州で滞在制作してみたり、『てんとてん』って作品でいろんな土地をしたりっていう経験が影響してる気がするんです。藤田君自身は町を出て上京して、町を出るってモチーフを繰り返し描いてきたけど、旅を繰り返す中で町にずっと残り続けている人たちとも出会ったわけですよね。北九州に滞在したときも、「18歳を過ぎても地元に残っていたらどうだっただろう」ということを想像したんじゃないかと思うんです。

 

中島 僕は福岡で芝居やってたんですけど、解散みたいになったので、東京に出てきたんですね。そこで福岡に残ったから何かを手に入れた人もいるし、僕はどこまで芝居ができるのかっていう状況ではあるんで。

 

船津 僕は年に何ヶ月かは福岡にいたりするから、ずっといない期間があるっていうわけでもないんですけど――。

 

中島 でも、あなたの世代は距離が短くなっていく世代なんじゃないの。僕のときはまだ東京ってめっちゃ遠かったもん。

 

船津 そうですね。今は5千円あれば飛行機に乗れちゃう時代ですもんね。

 

中島 出ていくとなったら、しばらく会うことができないっていう選択をしないといけないし、「もう帰ってこれない」くらいの感じはあったよね。藤田さんもそれに近いことを言ってたけど。

――一方で、田舎であろうと都会であろうと変わらずにある感覚ってありますよね。どこに行ってもこの気分は残り続ける、というか。今思うと、以前の藤田君はその気分っていうものを町に当てはめに行っていたところもある気がするんですよね。『LAND→SCAPE』のときは、北九州って町に自分の感覚を当てに行った気がするんですけど、いくつもの町を旅していくうちに「ありとあらゆる場所に通じる感覚はある」という感覚に近づいて行って、その先に今回の『sheep sleep sharp』があると思うんです。

 

中島 そうですね。今回のプロットを読んだときにそれはすごく思いました。たとえば海外戯曲を日本で上演するっていうのもそれに近いところがありますよね。そこで描かれているのは海外の話なんだけど、普遍的なものを感じられるというか。そういう普遍的なものは今回のプロットからも感じましたね。

 

船津 僕は炭鉱夫の役ですけど、うちの近所にも炭鉱はあるんです。その町には川が流れていて、川の源流のほうまで行くと炭鉱があって、川から海まで船で石炭を運んでくる経路があるんですよね。そういう意味では身近なところを感じつつも、そういうとこって全国にあって、もっと言えば海外とかにもあると思うんですよね。そこで地方には地方なりの閉塞感があって、都会にいればまたちょっと違う閉塞感があるじゃないですか。いたるところで事件が起こって、それをいろんなふうに分析したり報道したりしますけど、そういうことはとどまることなく続いていて――それって何なんだろうなってことを、プロットを読んで改めて感じましたね。

 

――稽古が始まる2ヶ月以上前にプロットが存在するなんていうのは、藤田君の作品としては初めてですよね。いつもは準備のしようもないですけど、こうやってプロットがあると何か準備したりすることはあるんですか?

 

船津 でも、いつもと変わんないですね。役の設定が決まってるっていうのはいつもと違いますけど、稽古場に行ってやる作業も、その先の作業もいつもと変わらないと思うから、炭鉱夫っていう役に対してのイメージは持ちつつも、それで「こうしたい」とかっていうのはないですね。

 

中島 それは僕もそうですね。僕ひとりで作ってるわけじゃなくて、藤田さんが作りたいっていうものがあるわけだから、その「作りたい」っていうところに対してどこまでやれるかっていうことですね。「ボクシングジムに通っといて」とかっていうのがあれば通いますけど、まあ、普通にコンディションを整えるくらいです。結局、藤田貴大が作りたいものをやれるかどうかっていうだけで、体力的に厳しいのかもしれないけど、まだやれるんじゃないかと思ってるんでしょうね。「次やるよ」って言われたら、藤田さんが今作りたいものにとことん付き合いたいなと思ってます。

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