「sheep sleep sharp」藤田貴大 インタビュー 2
『sheep sleep sharp』という新作について、2月中旬の時点で藤田君は「今年もまた『てんとてん』と『カタチノチガウ』という二つの作品でツアーをした上で、その少し先を行く作品をつくりたい」と言っていた。『てんとてん』はソウル、新潟、豊橋で上演され、『カタチノチガウ』は高雄で上演され、無事に千秋楽を迎えた。高雄公演を終えたばかりの藤田君に、今年の旅はどんな旅だったのか、屋台で台湾ビールを飲みつつ振り返ってもらう。
――まずは今年のツアーを振り返った率直な感想から伺えればと思います。
藤田 自分の作品をやるのは結構苦しいことで、再演するときに『この作品は僕に必要ない』って思ってしまうことがあるんです。そう思ってしまうのは怖いんだけど、二つとも僕にとって必要な作品だなって思えたのがよかったなと思っていて。『てんとてん』に関して言うと、豊橋の時に結構良かった回があって、これはまだ普通に必要な作品だなって思えたんですよね。『てんとてん』は海外でやることが多かったけど、必ずしも海外でやるってことだけが必要なわけじゃなくて、今の日本の国内でやることも必要だなと思えたんです。
『カタチノチガウ』に関しては、やっぱりエピローグの突き抜け方はどの作品にもないなって思うんですよね。死ぬっていうことと生き続けることが等価値になっていくというか、生きるのも死ぬのも関係なくなって、地面っていうラインと同化していくわけだけど、死っていうものを肯定しつつ抗うあの感じって、自分は何を思ってこれを書いたのかわかんないっていう状態にいつもなるんですよね。
――『カタチノチガウ』は今年で三年目で、『てんとてん』は五年目ですよね。作品でツアーに出るってことについて、最初の頃は“その土地とどう出会うか”ってことに重きを置いてましたけど、今は“改めて作品と出会い直す”っていう作業に重点が置かれてきたように感じます。
藤田 そうですね。さっき言ったように、その出会い直すっていうことに対して怖さもあるんです。ただ、作品をやることで「ここで考えたことは考え終わった」っていう判断を下したい自分もいるんですよね。考え終わったと思えたときに初めて先に行けるというか。『てんとてん』と『カタチノチガウ』については、まだここで終わりにしなくていいなと思ったんだけど、この先に行く作品を作んなくちゃなってことも思ったんです。何でそう思ったのか、自分でもよくわかってないんですけど。
――『てんとてん』では「ヒカリ」という言葉を、『カタチノチガウ』では「未来」という言葉を初めて使ったわけですよね。いろんな土地で「ヒカリ」や「未来」という言葉を響かせていくうちにそのニュアンスも変わってきて、作品自体も変わってたところがあるように思います。『カタチノチガウ』に関しては、去年のバージョンであれば「やがて訪れる、暗闇のなかに、永遠という一瞬が、ヒカリが。永遠が見える。永遠が聴こえる。ヒカリが見える。ヒカリが聴こえる」という台詞で終幕を迎えてましたけど、今年はそのあとに、「わたしたちは、カタチノチガウ。ずっと、カタチノチガウままで」という一行が書き加えられましたね。
藤田 最後に「ヒカリ」とか「永遠」とかって言葉を置くことのインパクトはあったと思うんだけど、そこで終わってしまうと、そこまで描いてきたいろんな差別のことがふんわりしちゃうんじゃないかと思ったんです。最後に台詞を言ったあとで“いづみ”は死ぬわけだけど、そこで「カタチノチガウままで」と言ってから飛び降りることで、ある意味では自分を肯定してるんじゃないかと思ったんです。カタチノチガウことを呪ったまま死ぬんじゃなくて、違ったままでっていうことでそこに突入していくっていうのは、ある意味ではすごく自由だなと思ったんですよね。『カタチノチガウ』って作品は、自分のコドモを血の繋がっていない相手に託すっていうことを描くわけですけど、「私は未来に責任を持ちたくないからあなたたちに託す」っていう態度が違和感だったんですよね。その違和感を考えたくて『sheep sleep sharp』って作品をつくろうと思ってるんだけど、そのことについては今年の『カタチノチガウ』の中でも考えることができたなと思ってます」
――『カタチノチガウ』という作品を描いたときって、「未来」っていう言葉でイメージするものは、たとえば50年後なら50年後、自分が死んでしまったあとの時間ってことだった気がするんですよね。そういう時間を想像するからこそ、託すってことを考えていたようにも思うんです。でも、今年のバージョンは、もっと規模の大きな時間を――それこそ何百年とか何千年って規模の時間を――連想する構造になっていた気がします。
藤田 そうですね。それは『ロミジュリ』をやってすごい考えることになったんですよ。シェイクスピアが死んだ400年後に俺みたいなやつがそれを読み解いてるっていうのはかなり不思議な経験だなって思いながらやってたんですけど、僕の言葉っていうのも400年後に誰かに拾われて読まれたりするのかなと思うとちょっとワクワクするんですよね。今こうして、誰もが予想できたであろう血で血を洗う時代に普通に突入して――そういう時代に突入したってことは、それを選択した人たちがいるってことだから、それはそれでいいんだけど――戦争っていうものは普通に起こり続けるわけですよね。そこで、『カタチノチガウ』の“さとこ”みたいに、コドモの首に手をかけたあとで「やっぱりそれはできなくて」って言うならまだいいものの、全然そんなこともなしにサリンで殺されてく状況になっちゃってるわけですよね。その選択をした人は、その子たちには何の未来も感じていないからそういうことができるんだと思うんだけど、それってすごいジャッジだなと思って。今回、そんなに希望的なことを言いたいわけじゃなかったんだけど、「何でそれができるの?」っていう感覚は増してきたなと思います。
――『てんとてん』と『カタチノチガウ』、二作品の変化ということで言うと、言葉のリズムのありかたが変わってきたなと思うんですね。これは特に『てんとてん』で感じたことですけど、あの作品で最初にフィレンツェ公演をやったときは「音楽みたいに聴けるように」ってことを話してたと思うんです。でも、今年は台詞と台詞のあいだに隙間がつくられていて、かなりリズムが変わりましたよね。今度の新作は「言葉のなさ」っていうことが一つのテーマになってくるとも思うんですけど、その変化はなぜ起きてるんですか?
藤田 洪水のように台詞を聞かせていくことの良さはわかってるし、音楽と連動することの快感もわかってるし、それを繰り返すことによってあらわれる感情の情景っていうのは今も好きなんです。でも、シンプルな話として、若い頃より聴こえる音が増えたんだと思うんですよね。隙間なく台詞で埋めていったときに聴き逃していた音があって、そこで台詞を言わないほうが台詞じゃない音が聴こえることがあるというか。僕の音楽の趣味が変わってきてるとか、そういうことも少なからず影響してるとは思うんだけど、余白を加えることで聴いて欲しい音があるってことだと思う。10代の子とかはもっとガンガン行ったほうが好きな演目かもしれないけど、そうやってしまうと観客が思考停止してしまう部分があるから、変な余白を加えることによって観客が戸惑うような聴かせかたをするのも重要だと思うんですよね。それは台詞を言う側にも言えることで、「それはお前がその尺の中で、そのリズムで言いたいだけだろ」ってことになっちゃうと、ただ発信するだけの立場になっちゃって、やってる最中に何も聴いてないじゃんって話になっちゃうんですよね。
――『sheep sleep sharp』という新作について、前に「限りなく自分たちでやっていきたい」ということを言ってましたよね。その「限りなく自分たちでやっていきたい」っていうことの意味について伺えますか。
藤田 たとえばキャパシティが8000人の公演をやるっていうときに、自分たちだけじゃ出来なくなってくる部分はあるんだけど、それを出演者のネームバリューに頼らずにやりたいとマームとジプシーは思ってるんです。でも、こないだの『ロミオとジュリエット』に関して言うと、たとえばシェイクスピアって名前を借りた公演だったとも思うんですよね。誰かの名前を借りるっていうことをやっていくと、自分たちっていうのは何なのか、わかんなくなっていくところがあるんですよね。そこで改めて、自分たちってことだけで作品を作ったときにどこまで届くのかなってことを考えたし、もし届かないんだとしたら僕はもう劇作家と名乗りたくないなと思ってるんです。そうなるんだったら、誰かの言葉を扱って、誰かをキャスティングして上演する演出家ってことでいいと思うんですよね。僕は今年で32歳になるんですけど、劇作家としてオリジナル作品をつくって、僕が統率を取れる座組の中でやるっていうことができないんだったら、それってどうなんだろうってことを普通に思ったし、そういう作業を最近やってなかったなと思ったんです。
――明日の朝7時の便で帰国すると、すぐに『sheep sleep sharp』に向けた作業が始まります。今、改めて、どんなことを思い描いていますか?
藤田 これは今日の『カタチノチガウ』を観てて思ったことなんですけど――この作品のエピローグには、お屋敷を出た“さとこ”が劇場を見つけるっていうシーンがありますよね。あれはムーミンに出てくる話が元ネタで、ムーミン谷が洪水におそわれて劇場に移り住むって話があるんです。あそこだけちょっとメタ構造というか、ここで今考えてることって実は未来だし、実はヒカリだっていうことを言いたかったんだと思うんだけど、今日の公演を観てるときには母親と一緒に劇場に足を運んだ自分を思い出したんです。10歳のときに母親と一緒に劇団四季を観に行ったことがあって、それが演劇を始めるきっかけだったんですけど、母親と二人で観てた感じをすごいおぼえてるんです。僕の友達のお父さんがJRに勤めていて、当時はJRの切符と劇団四季のチケットがセットで売ってたんですけど、それをその友達のお父さんから買って、「高いチケットなんだろうな」と思いながら母親と二人で札幌まで行って――そのときのことを急に思い出したんですよね。
――『カタチノチガウ』はこれまで何度も上演してきましたけど、今日初めてそのことが思い浮かんだんですか?
藤田 そうですね。『カタチノチガウ』って作品はあんまり自分の原風景ってところで描いてるつもりはなかったし、たぶん『sheep sleep sharp』って作品も自分の原風景ってところで描くつもりはないんだけど、そのモチーフだけはあってもいいかなと思ったんですよね。だから、真緒ちゃんが演じる役になるか青柳さんが演じる役になるかはわからないけど、小さい頃に演劇を観たことがあったっていう話はやるべきだなって思えたんですよね。たぶん、穂村さんの言葉で言うところの「孤独な少女像」を青柳さんや真緒ちゃんには演じてもらうわけなんだけど、彼女たちの唯一何の濁りもない記憶として「劇場で誰かと一緒に演劇らしい演劇を観た」っていうことがあってもいいかもしれないなってことは今日思ったんですよね。
――『ロミオとジュリエット』のときであれば、なぜ二人がその結末に至ってしまったのかってことを考えるために、逆再生という形で上演したわけですよね。今回の新作も、青柳さんが演じる「私」という人物が最後にある決断に至るということを描きたいんじゃないかと思うんです。その最後のシーンで流したい曲があるっていう話もされてましたけど、そこで描きたいと思っていることは何ですか?
藤田 それは結構長い曲なんだけど、夜のイメージっていうことと、月のイメージっていうことが出てくるんですよね。歌詞もすごく良いんだけど、曲の後半になって序盤の曲調が構造に戻ってくるんです。その構造っていうのは、僕が描きたいと思っていることにも近くて、真緒ちゃんのことを言っているんだと思っていたら、それは青柳さんのことだったかもしれないっていう構造をやりたくて、その構造と曲とがうまくハマると相当ヤバいと思うんですよね。今回は事前にプロットを書いたけど、稽古をやりながら変えていってもいいと思ってるので、また違う身体に出会って、違う振付が生まれて、違う言葉の強度が出てくることに期待してるから、稽古がほんとに楽しみですね。