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『てんとてん』(2017)ドキュメント/彼らは何を思いながら旅を重ねてきたのか?

 藤田君から電話があったのは2月中旬のことだ。「今年、マームとジプシーは10周年なんですけど」と藤田君が切り出す。どこかを歩きながら話しているらしかった。「今度のゴールデンウィークに、LUMINE0で新作をやろうと思ってるんです。今月末から『てんとてん』のツアーをして、4月に『カタチノチガウ』の台湾公演をやった上で、その少し先を行く作品を作れたらなと思ってるんです」

 

 ゴールデンウィークに上演される新作『sheep sleep sharp』が『カタチノチガウ』の少し先を行く作品であると藤田君は言う。その『カタチノチガウ』という作品は、『てんとてん』で旅を続ける中で生まれた作品である。新作について考えるためにも、まずは『てんとてん』で彼らがどんなふうに旅をしてきたのかを振り返るところから始めたいと思う。

 

 『てんとてんを、むすぶせん。からなる、立体。そのなかに、つまっている、いくつもの。ことなった、世界。および、ひかりについて。』という長いタイトルの作品は、マームとジプシーが初めて海外で発表した作品だ。2013年5月のイタリア・フィレンツェ公演、6月のチリ・サンティアゴ公演を皮切りに、2014年にボスニア・ヘルツェゴビナ、イタリア(ポンテデーラ、アンコーナ、メッシーナの3都市)、2015年のドイツ・ケルン公演、2016年LUMINE0での新宿公演と毎年旅を重ねており、今年の春はソウル・新潟・豊橋を旅した。

 

 最初のフィレンツェ公演に向けて成田空港に集合した時は、皆が大きなスーツケースを抱えていたけれど、今ではすっかり旅慣れており、小道具はスーツケース一個に収納されている。その中には旅先で買った物もある。フィレンツェで買ったピノキオや、サンティアゴの蚤の市で出会った人形。登場人物のひとりが読みふける『あしながおじさん』の文庫本はすっかりボロボロだ。そんなところからも、この5年に彼らが旅した道程に思いを巡らせてしまう。

 『てんとてん』には6人のキャラクターが登場する。彼らは小さな町にクラス中学3年生で、同じ学校に通う顔見知りだ。ある日、その小さな町で事件が起こる。3歳の女の子が殺されて、用水路に捨てられていたのだ。この時代は2001年という設定になっており、劇中ではあの出来事についても語られる。

 

 「あの日はたしか、日本の時間でいうとけっこう夜で、ぼくはたしか、風呂あがりで、アイスとか食べながら、ソファでくつろいでいて、それで、テレビつけて、つけたとこがちょうどニュース番組で、それを見ていたら、突然、なにかの中継の映像に切り替わって、その映像には、日本じゃないどこかの国のビルが映っていて、そのビルにはさっき、飛行機が一機、突っ込んだらしい、との報道がされていて、で、ぼくが、なにこれってことで見ていたら、さらに二機目が、そのビルに突っ込んで、それがこの」――そこまで語られると、スクリーンに映し出されていたジェンガが崩れ落ちる。

 

 ここで9・11の話は唐突に切り出されているのだが、それには当然理由がある。初めてフィレンツェ公演を行ったとき、記者会見の席で藤田君はこんな話をした。

 

 「今回の作品は、悲劇的な出来事を扱ってはいるんだけど、その悲劇と、僕らの日々との距離を描きたいんですね。悲劇は悲劇としてあるんだけど、僕らは普通に生活をしてるわけですよね。悲劇は悲劇として悲しいとは思うんだけど、悲劇の悲しさを描くんじゃなくて、その距離を描きたいと思っています」

 劇中に登場する、3歳の女の子が殺された事件というのは実際にあった出来事なのか――そんな質問もあった。その事件というのは、スーパーマーケットのトイレで3歳の女の子が殺されて、リュックで運び出され、用水路に遺棄した事件をモチーフとしているのだろう。しかし、そうした悲劇というのは、この5年の日本で起きた事件に限ってみても何十件と起きている。新たな事件が起きるたびに大々的に報道があり、しばらく経つと語られなくなってゆく。その繰り返しがあるなかで、『てんとてん』という作品もまた上演が繰り返されてきた。しかし、ただ繰り返し上演されるのではなく、藤田君は毎年少しずつ、しかし大きな変更を加え続けてきた。こう書いてしまうと、別の事件をモチーフとして取り込んでいるかのようにも読めるけれどそうではなく、そうして繰り返される悲劇と、それと私たちとの距離を考え続けてきたことが、作品に少しずつ反映されたということだ。つまり、『てんとてん』の舞台となる小さな町のことを考えることで、旅した土地のことを、この世界のことを考えて続けてきたのだとも言える。

 

 旅の年輪が刻まれていくのは小道具たちだけでなく、役者の身体の中にも蓄積していくものがある。今年のソウル公演を観ていると、あらためてそのことを感じた。公演前日、劇場でリハーサルが行われていたとき、あるシーンで役者が涙を流しているのを目にして驚いた。去年までの『てんとてん』では、そのシーンでさほど涙を流していなかったはずだ。でも、どういうわけだか今年は、役者の目から涙があふれていたのである。

 

 マームとジプシーの作品では役者が涙を流すことが少なからずある。しかし、藤田君が「泣け」と演出したことは一度もないはずだ。涙を流しているということを賞賛するつもりはまったくないけれど、彼らが涙を流すのは一体なぜだろう?

 最初にフィレンツェ公演をしたとき、「僕は昔から『旅公演がやりたい』と言ってたんですけど、作品をツアーにまわすってことに躊躇してるところがあるんですよ」と藤田君は言っていた。「どこでやっても同じだよねってことになると、僕も疲れてくるし、皆も疲れてくると思うから、『ここではこういう成果があったよね』っていうことを話し合える作品がいいんです。今回は初めての海外公演だから発見があって楽しいけど、こういう成果があったって実感がなくなったら疲れていくのみだと思うんですよね。だから、もしこの作品で旅をする意味がなくなったとしたら、僕はこの作品を捨てると思う」

 

 旅をする意味ということについては、藤田君だけではなく、『てんとてん』にかかわる全員が考えてきたように思う。舞台上で流される涙には、少なくとも『てんとてん』という作品に限って言えば、ここまで旅を続けてきた蓄積が詰まっているのではないか。そこには『てんとてん』の登場人物の感情だけではなく、それを演じる彼ら自身が旅の中で目にしてきた風景が詰まっている。藤田君が「泣くな」と指示せずにいるということは、『てんとてん』の世界を崩さない限りにおいて、ひとりひとりの内側にあるそうした蓄積をなかったことにする必要はないということだろう。しかし、そんなふうに旅を続けることはタフな作業でもある。その軋みは、ツア−2年目で早くも表面化することになる。

 

 2年目の旅はボスニア・ヘルツェゴビナから始まった。そこでコーディネイターと通訳を担当してくれたのはタイダさんという女性だ。彼女の本業は版画家であるのだが、日本に暮らしたことがあって日本語も堪能だということで通訳をしてくれた。ユーゴスラビア紛争が始まった春、彼女は12歳だった。彼女の自宅は前線にあり、目の前で人が殺されるのを目撃したこともある――そんな話をタイダさんは語ってくれた。その一方で、自分は版画家として戦争というテーマを描きたくないという。「それを描けば皆共感してくれるけれど、その経験はすごくパーソナルなものだから、あまり外に出したくないです」と。タイダさんの話は――ボスニアという町は――どうしても『てんとてん』という作品と重なるところがあった(タイダさんも、タイダさんの恋人のスティーブンも「この作品にはボスニアとの強いつながりを感じる」と感想を漏らしていた)。

 

 『てんとてん』の世界がボスニアと重なってしまった影響は、次の土地であきらかになる。ポンテデーラという町は、劇場の目の前に巨大なスーパーマーケット「パノラマ」があるだけで、他には何もない町だ。また、そこではタイダさんのように話し合える相手にも出会えず、町について何も知らないままポンテデーラ公演を迎えようとしていた。本番前日、スーパーマーケットで買い物を済ませた帰り道、役者の成田亜佑美さんは藤田君に「『この町』って、どこを思って言えばいい?」と訊ねた。彼女は『てんとてん』という作品で、こんな台詞を語る。

 

 「わたしたちは、あの春、離れ離れになった。そしてあれから、それぞれ別々の方法で。この町で起こったこと。あの殺された女の子のこと。“あやちゃん”のことも。記憶の端っこに追いやって、やがて忘れていくのだった」

 この台詞に登場する「この町で起こったこと」という台詞が、亜佑美さんはどうしても引っかかるようだった。たしかに、“悲劇と、それとの距離”を考えるこの作品は、サラエボという町に――“悲劇と、それとの距離”を考え続けているタイダさんと出会った町に――フィットし過ぎたのだろう。タイダさんが日本語を話せるから、いろんな言葉をかわすことができたというのも大きかったのだろう。だからこそ、次にポンテデーラという町にたどり着いたとき、「この町について何も知らないってことがどうしても引っかかっちゃう」と亜佑美さんは言った。「『この町で起こったこと』っていうとき、ずっと『てんとてん』の町のことしか──三歳の女の子が殺された町のことしか――想像してなかったけど、ボスニアでやったときは『この町』っていう台詞をボスニアってことで言っちゃったから」と。

 

 最初は「それは別に、どこのことも思わなくていいんじゃないの」と答えていた藤田君だったけれど、劇場に戻ったところで「え、『どこを思って言えばいい?』って、どういうつもりで言ってるの?」と険しい表情で切り出した。

 

 「あっちゃんの言い方が引っかかるのは、『この町のことを知らない』ってことをどういうつもりで言ってるのかがわからないんだ。だって、僕らはどの街のことだって知らないよね。タイダさんから偶然話は聞けたけど、サラエボのことだって知れたとは思わないしね。逆にさ、知れたとか言っちゃうのはおこがましいことじゃん。それに、ポンテデーラに特別な悲劇みたいなことが何もなかったとしても、それが悪いとは全然思わないしね。だから、ボスニアで出会ったことは絶対に引き算しなくていいんだけど、今ポンテデーラにいるってことはボスニアに引けを取ることだとは思わないって話。こうやって旅をしていくと、こう、蓄積していくじゃん。その蓄積をやるしかないんだけど、それは『どことしてやればいいの?』とかじゃないよね。蓄積をやるんだけど、今いるのはポンテデーラだし、やっているのは『てんとてん』の世界だってことじゃないと駄目なんだと思う」

 

 様々な感情を蓄積させながら、彼らは旅を続けてきた。では、『てんとてん』という作品で旅をすることを通じて、何に思いを巡らせてきたのだろう。

 『てんとてん』は、まったく同じ戯曲を繰り返し上演するのではなく、毎年少しずつ変更が加えられてきたと書いた。今年もいくつかのシーンに変更があった。中でもギョッとさせられたのは、3歳の女の子が殺された事件の記事を読むべく図書室を訪れた“あやちゃん”が“じつこちゃん”と遭遇し、会話をするシーンだ。

 

 「じつこちゃん」

 「ん、なに」

 「じつこちゃんは、いつもひとりでいるけれど、それはなんでなの?」

 「え、なんでだろう、理由とかはないけど」

 「ふーん、でもなんか楽そうだね、ひとりでいるのは」

 「え」

 「新聞ってどこで読めるの?」

 「え、あっちじゃない?」

 「ああ」

 「え、なんで?」

 「こないだの、あの事件の記事が、読みたくてさ」

 「え、あ、え、あ、ああ、あの、そうですか――普段、図書室になんか来そうもないあやちゃんが、あの日は図書室にいた」

 去年までのバージョンでは、このシーンはここで終わっていたけれど、今年はその後に“あやちゃん”の回想が加筆された。それは、「あの事件の記事、あれを読んだのは、去年の夏休みに入る前のことだった」という内容だ。なぜギョッとさせられたのかと言えば、この台詞が加えられたことによって、彼女が家出をするきっかけは半年以上前の出来事だったということになるからだ。

 

 去年までの『てんとてん』では、彼らが中学3年生だったときに起きたいくつかの出来事について、どういうタイムラインであるのか明確にされていなかったところがある。3歳の女の子が殺される事件が起きた日。その犯人が逮捕された日。“あやちゃん”が家出をして森の中でキャンプを始めた日。これらの出来事のあいだに、どれくらい時間が経過しているのかは明確にされておらず、森の中でキャンプを始めたのは卒業を目前に控えた春であるということだけが語られていた。そのせいか、観客である僕は、これらの3つの出来事は比較的近いうちに起きているものだと思い込んでいた。しかし、“あやちゃん”があの事件の記事を読んだのは去年の夏休みに入る前のことだったとすると、彼女は半年以上前に起きた事件に考えを巡らせ続けていたということになる。だとすれば、だ。さきほど引用した図書館でのシーンに続けて描かれるこんなやりとりも、色彩が違ってくる。それは、何でこんなところでキャンプなんかやっているのかと問い糺す“さとこ”に向かって、“あやちゃん”がこんなことを語るシーンだ。

 

 「だってさあ、あのさあ、あの子のさあ、こととかさあ、あるのにさあ!」

 「は、なに」

 「いや」

 「なになに、あやちゃんのこれと、あの子のことが関係あるっていうわけ? どういうこと?」

 

  あるいは、“あやちゃん”が“しんたろう君”にこんなことを語るシーンの色彩も変わってくる。

 

 「でも、なんで皆、そんなに器用に振る舞えるわけ?」

 「は?」

 「いや、あんなことがさあ、あったのに」

 「え?」

 「なんでそんなに皆、普通に日常に戻れるわけ?」

 「いや、それはさあ」

 事件が起きたのは半年以上前だとすると、ここで“しんたろう君”が「は?」「え?」と戸惑う姿も違って見えてくる。起きたときには誰しも心を痛めているだろうけれど、半年以上経って「何でそんなに普通に日常に戻れるわけ?」と詰問されても、言われたほうはギョッとするばかりだ。

 

 そのギョッとする感覚というのは、韓国公演の打ち上げでも感じることになる。

 

 韓国ビールを飲みながら、どうして“あやちゃん”が新聞記事を読んだ時期と家出をする時期のあいだにタイムラグを生じさせたのかと訊ねてみると、藤田君は「夏っていう時間のことを“あやちゃん”に言わせたかったっていうのはあって、やっぱり、2016年の夏にトランプが言ったことって一杯あるわけですよね」と藤田君は言った。まさかそこでトランプという名前が出てくると思っていなかったので、僕はちょっとたじろいでしまったけれど、藤田君はかまわず話を続ける。

 

 「去年の夏、僕はトランプが言ったことをずっと検索してたんですよ。で、トランプが当選したときはショックだったし『もう終わったな』と思ったんだけど、トランプを支持する人たちがいるってことは、そもそもそういう世界だったなって思ったんです。トランプの登場によって明るみに出ただけで、世界みたいなものはそもそも終わってたなってことを年末年始に考えたんですよ。何かをきっかけにそこまで膨れ上がってきた暗闇が表に出るってだけで、そもそも終わってる世界を生きてただけだと思うんです。だから、“あやちゃん”ってことを考えたときに、そこにタイムラグはあるなってことを思ったんですよね」

 

 ところで、『てんとてん』という作品では2001年という時代が描かれると書いたけれど、それから10年経った2011年という時代も登場する。その世界にはもう“あやちゃん”は存在していない。おそらく彼女は自ら命を経ってしまっており、大人になった登場人物たちは10年前を振り返っている。

 初演の『てんとてん』では、どちらかと言えば、登場人物が皆で“あやちゃん”のことを振り返っていた。しかし、今年の印象は違っている。登場人物は、それぞれ違った形で10年前を振り返っている。韓国公演のリハーサルが行われているとき、藤田君はこんな話をした。

 

 「人っていうのは、戦争とか震災とかってことがあるときに何か教訓めいたものを受けた感じになっちゃうけど、そういう大きな悲劇が怒らなくても、3歳の女の子の死だとか、そういうことは世界中どこでも起こっていて、その子たちが思っていたことが偶然明るみにでるだけでしょってことを思うわけ。その小さい“てん”を拾い集めて行くっていう作業を『てんとてん』でもやっていくんだけど、今年のバージョンがいいなと思っているのは、皆がベタッと同じことを語ってないってことだと思うんだよね。もし全員が同じメッセージを言っているみたいになると全然くだらないと思うから、ひとりひとりが思っていることが孤立して行ったところが今年のバージョンのいいところだと思う。自分の役柄のルールの中で、ひとりひとりが言える範囲の中で語ってるほうが全然いいと思うし、それは去年のバージョンではたどり着けなかったところだと思うから、そこを孤立させていって欲しいんだよね」

 

 10年後の世界で、登場人物たちはそれぞれ過去を振り返り、記憶を辿っている。中学時代には「学年で一番面倒くさい、“あやちゃん”」なんて語っていた“さとこ”は、10年後の世界では、「あの頃の私にはさっぱり、“あやちゃん”の言っていることのほとんどが、この右腕のほくろと同じぐらい、わからなかった」と口にする(いずれの台詞も今年の新たに書き加えられた台詞だ)。実際に語られるのはここまでだけれども、観客である僕は、この台詞のあとに続くであろう「でも、今ならわかるよ、“あやちゃん”」という言葉を頭の中で想像してしまう。あるいは、別の場面で“じつこちゃん”が語るこんな台詞も深く印象に残る。

 

 「ひとりになりたかったのは、あやちゃんだけじゃない。私たち、皆、ひとりになりたかった。夜は、森は、私たちを、ひとりにしてくれる。川が流れる音。川は、海まで繋がっている。地面の隙間を縫うようにして、海まで、流れていく。朝は、やっぱりやってくる。夜も、やがて訪れる。その繰り返しを、ひとりぼっちで過ごすことができたなら、どんなに幸せだろう。そう思っていたのは、あやちゃんだけじゃない。私たち、皆。ひとりになりたかった」

 こうした台詞をもとに、あらためて、『てんとてん』で描かれる2001年という時代のことを考えてみる。

 

 「いつかはこの町から、この世界からいなくなってもいいんだよ」と語っていた“あやちゃん”は、森の中でキャンプを始めて、おそらくは自ら命を絶ってしまった。“さとこ”は第一志望の高校に合格して町を出ることになり、「安心してるんだ、出ていけることになって。この町から、こんな町から、出ていけることになって」と語る。“あゆみ”は、「“さとこちゃん”の言う、こんな町に残るよ、私は」と語る。この三者三様の選択に対して、誰が優劣をつけることができるだろう。殺された女の子のことや、日々の小さな出来事に傷つき、大きな振れ幅で反応したのは確かに“あやちゃん”である。しかし、それ以外の皆が、そうしたひとつひとつに対して無傷のまま過ごしていたなんて、誰に言えるだろう。そのことに思い至ったとき、改めて、“さとこ”と“あゆみ”のダイアローグが大きな意味を持ってくる。

 

 「わたしはさあ、でも」

 「うん」

 「わたしはさあ、でも、この町に残るよ、そうそうそう」

 「そっかそっか、残るのか」

 「この町で進学して、たぶん、高校を卒業してもこの町にいるよ

 「ふーん」

 「さとこちゃんが言う『こんな町』に、残るよわたしは」

 「うん、わたしには理解ができないかもしれない、こんな町に残るなんて」

 「あ、そう」

 「こんな町に残ったってさあ」

 「さとこちゃんにとっては、そうなんだろうね」

 「うん」

 「でも、わたしは、この町から外の世界に出ていくことが、イメージできないんだ」

 「そうなんだね」

 「それはだって、出ていくのも残るのも、ひとそれぞれじゃん」

 「うん」

 「なにが正しいとかもないだろうし、なにを選択するかってだけで」

 「うん」

 「さとこちゃんは出ていって、わたしは残るっていう、ただそれだけだからさ」

 「うん」

 「でもだからもう、これでお別れだね、わたしたち」

 「そうなるか」

 このダイアローグは、最初のフィレンツェ公演から変わらず存在するシーンだ。しかし、今年はどこか新しいシーンであるようにも感じられた。それは、台詞を発するリズムが今までとはかなり異なっていたからだ。

 

 マームとジプシーの作品の特徴としてよく語られてきたのが「リフレイン」という演出手法であり、もう一つ、全篇を通して大きなボリュームで音楽が流れているということも特徴の一つだ。音ということは、マームとジプシーが意識的に取り組んできたテーマの一つだろう。フィレンツェ公演を行ったとき、初めて海外の観客に作品を発表するにあたり、藤田君は役者たちにこう語りかけていた。

 

 「僕はJ-POPってあんまり聴けないんだけど、それは意味がつきまとってくるからだと思うんだよね。もちろんJ-POPでも『これは聴けるな』っていうのもあるんだけど、何を言ってるのかわからない音楽なのに聴けちゃうってことは、何を言ってるのかわからないってことが楽しいんだと思うんだよね。それで言うと、全然知らない言葉でやられてるのに観れちゃう演劇っていうのもあると思うわけ。だから、まずは音として心地いいってことをやりたいし、その先に意味があるんじゃないかと思ってる」

 

 かつての『てんとてん』という作品は、モノローグのリズムも、ダイアローグのリズムも、大きな音量で流れる音楽も、同じシーンが繰り返されるリフレインも、作品のグルーヴを上げるために機能してきた。『てんとてん』に限らず、藤田君による演出というものは、そうしてグルーヴが上がることを、同じシーンがリフレインすることによって役者の語る台詞がエモーショナルになっていくことを意図していたのではないかと思う。しかし、今年の『てんとてん』では、あえてそのリズムを――その台詞とシーンがよりエモーショナルに響くであろうリズムを――あえて外しているような感触があった。去年までであれば、たとえばさきほどの“さとこ”と“あゆみ”のシーンでも、そこで流れている音楽とともにグルーヴが上がるようにテンポよく言葉が交わされていたけれど、今年は少し言い淀むかのような間が散りばめられていた。その短い時間の中で、舞台上で台詞を語る登場人物たちも何か想像を巡らせるだろうし、観客もまた作品世界にひたって終わるわけにはいかず、自分自身として何か思いを巡らせてしまう。

  その一瞬を、その一瞬にふいにあふれた一粒の涙を、僕は客席から見つめている。そうして“さとこ”の語った台詞を反芻する。「わたしなんていう“てん”は、ありとあらゆる幾ばくの、夥しい数の無数のてんのなかの、あるひとつのちっぽけな“てん”にすぎない。でも、どんなにちっぽけだって、いろんな記憶が、わたしのなかには、詰まっている」。

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