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「sheep sleep sharp」藤田貴大 インタビュー 3

 小屋入り3日目にあたる5月2日、『sheep sleep sharp』の稽古は佳境を迎えていた。劇場という空間はヒカリが遮られており、暗闇での作業が続く。同じシーンを繰り返しながら、少しずつ変更が加えられていく。リハーサルは退館時刻ギリギリまで重ねられ、劇場を出る頃にはすっかり夜になっていた。日付変わればもう、公演初日だ。藤田君は今、この新作に何を思っているのか?――リハーサルを終えた直後に話を聞いた。

――ついに明日、『sheep sleep sharp』は初日を迎えます。ここまでの稽古を振り返っても、様々な角度で新しさを追求していたように感じます。そこでマームとしての新しさを追求していたというのは、もちろん今回の作品が新作だからというのがあるにしても、そこまで新しさということを突き詰めたのはなぜですか?

 

藤田 今年の『てんとてんを、むすぶせん。からなる、立体。そのなかに、つまっている、いくつもの。ことなった、世界。および、ひかりについて。』と『カタチノチガウ』をやったときに、生理的な感覚として「これは僕の中で描くことができた」っていう実感があって、それをどう外していくかっていうことを具体的に考えたくなったんだと思うんです。「新しいことをやる」っていう言葉は簡単だからそう言ってしまうけど、「新しいことをやりたくてやっている」というよりも「どうしたってそれをやらなくちゃいけない」っていうふうに、あのツアーが終わったあとに自分の中のモードとしてなったんだと思います。そうしたときに、たとえば『ロミオとジュリエット』とか『小指の思い出』とか、他の人の戯曲をやるときは物と人の配置だけで何を描けるかってことをすごく考えていたけど、自分の言葉でそれをやったことがなかったなと思っていて、それを自分としてやりたくなったんだと思うんです。ただ、それは「やりたくてやっている」ということではなくて、「結果としてやりたくなっている」という感じだから、自分としても不思議なんですよね。

 

――その新しさというのは、一つには、いま藤田さんがおっしゃったように言葉とその余白をどう配置するかということがあったかと思います。それを追求する上で、観客がそれをどう受け取るだろうかってことを考えていた時間も結構な割合であったと思うんですよね。明日にはこの劇場を目指して観客がやってきて、今度は観客との作業ってことにもなると思うんですけど、観客っていう人たちについて今、どんなことを考えますか?

 

藤田 今回の新作は、すごい賛否両論を呼ぶと思うんです。それは内容における賛否両論っていうよりも、たとえば福島で『タイムライン』って作品をやっているときもそうなんですけど、観客に託し始めている傾向があるんです。その作品で扱われている内容以前の問題として、「これってどうやってこどもたちと関わっているんだろう?」みたいなことを観客は考えざるをえないと思うんですけど、その部分が僕の作品の中で大きくなってきた気がするんですよね。そういう意味では、今回は観客がいないと完成しない作品をできているような気がしていて。『てんとてん』や『カタチノチガウ』は、稽古場で作っているときも楽しいし、稽古場で成立するグルーヴを信じていたりするんだけど、この『sheep sleep sharp』に関しては稽古場で完結することはほとんどなかったと思うんですよね。それは「この余白に対して観客がどうピースを当てはめていくのか?」みたいなことを考えて作った作品だと思うから、そこが楽しみだし不安なんです。場面転換だけじゃなくて、間っていうものがすごく多い作品なわけですけど、その間の中で役者が「次の台詞をどういうつもりで言うか」ってことを考えているように、観客も「この間は何だろう?」ってことを考える気がするんです。その意味では、他のどの作品よりも観客に託している部分があると思うんですよね。

――そう考えると、描きたいテーマも観客に期待するものも、これまでの作品に比べて異質ですね。誰かに託すっていうことを考えていた『カタチノチガウ』とは対照的なところもある気がします。

 

藤田 そうですね。これはしつこく言っていることですけど、これまでは「自分が死んだあとの世界は、自分には何の責任もなくて、誰かに託すしかない」っていう言い方をしてしまってきたような気がするんです。でも、今回の新作は、「これは全部自分のためにやっていることで、未来にしても何にしても、それは全部自分の手の中にある」ってことに向かって作ってきたと思うんです。それを言うためには、言ってるだけじゃダメな気がしてるんですよね。これまでは間を埋めるように言葉を詰めてきたし、舞台側から観客側に発信するってことで言葉を凝縮してきたけど、その「全部自分の手の中にある」ってことに行きつくためにはこの空間にいる全員が考えなきゃダメで、そこでは役者も観客も関係ないと思うんです。これまでは「文脈を作っていくのが役者さんの仕事だ」と思っていたと思うんですけど、そこには観客って人たちが確実にいるわけですよ。でも、僕が最後に置きたい言葉に至るまでの流れを作るのは、必ずしも役者だけじゃないと思うんです。そうじゃなくて、何百もの頭が、僕が最後に置きたい言葉に向かって考え続ける2時間ってことじゃないとダメなんだと思うんです。だから、皆さんの考えてくれたことがそこに行きつくっていう流れを作りたいんですけど、それはでも、蓋を開けてみないと成功するかどうかわからないですね。

 

――今回の作品では、今まで以上に「想像をめぐらせる」ということを突き詰めていたように思います。その背景に、この世界で起きているありとあらゆる出来事に想像をめぐらせなければならないんだという決意を感じたんですね。演劇というものはフィクションで、これまでの作品だって想像をめぐらせるという時間ではあったと思うんですけど、その「想像をめぐらせる」ということについて今、藤田さんはどんなことを考えていますか?

 

藤田 今回の作品は、今までより直接的なことを言っているような気がするんです。それはやっぱり、これまでのようには「ヒカリ」って言葉を言えなくなってきているし、言えるとしても今までのやりかたで言っていたんじゃダメだろうなと思うんです。たとえば『cocoon』って作品でツアーをして、何千人って人に僕の作品を見せたわけですけど、それでも何も変わってない世界が歴然とある。僕は政治家になりたいわけじゃないから政治的なことを言いたいわけではまったくないんだけど、この世界を変えるのはものすごく大変で、僕の作品を観た人が感動して帰るってことに疑いを持ち始めたところもあるんです。僕の作品を観て、「またマームの作品を観たいね」って思ってもらったんじゃもうダメなのかなってことを少し思い始めたんです。たとえ「作品としてはわかんなかったけど、考えることがあった」と思ってもらったほうがいいんじゃないかと思っているんだと思います。

――明日からの5日間、観客が『sheep sleep sharp』に何を感じるのか、楽しみですね。

 

藤田 もちろん楽しみでもあるんですけど、『カタチノチガウ』のときと同じように、不安でしょうがないです。自分で「この作品は良い作品だ」って言い聞かせてるけど、その確信を得られないまま取り組んでるのはかなり久しぶりなんです。『カタチノチガウ』以降の僕の作品は、どういう反応が来るかってことはわかってたフシがあるんですけど、こんなにもわからないのは久しぶりですね。

ここまで
取材・写真[クレジットのないもの]・文=橋本倫史
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